「主がお入り用なのです。」3月12日ルカによる福音書19章28-44節

「主がお入り用なのです。」3月12日ルカによる福音書1928-44

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1,レントのシーズンを迎えて

先々週からレント(受難節)の季節に入りました。イースターまでの40日間を言います。「40」は苦しみの印です。モーセの荒野の40年、モーセがシナイ山で祈った40日、エリヤがホレブ山で行った40日間の断食、ヨナがニネベの人々に40日以内の悔い改めを迫ったこと、イエス様が荒野で過ごされた4040夜など。これらの日々は、すべて悲しみや困難や苦しみの日々、神様との激闘の日々です。

初代教会の人々は、40日間の断食、節食、祈りの連祷を行ってキリストの苦しみを体で再現し、キリストの苦しみを知りたいと願ったのです。

今日の個所はエルサレム入場の物語です。旧約聖書は、黄金門と呼ばれる東側の城壁の門からメシアはエルサレムに入場し、神の国を建てると信じられていました。聖書は、イエス様はまさにそのメシアで、神の到来が成就したことを示します。キリスト・イエスというメシアには特徴があります。

3、驢馬に乗るメシア・キリスト

 第一に「驢馬に乗るメシア」であることです。2835節がそのことを示します。

ささやかな驢馬に乗ってイエス様はエルサレムに入場されます。サラブレッドにも乗らず、アラビア馬のような豪華な馬にも乗らず、19:30まだ誰も乗ったことのない」驢馬、経験もなく、しつけもなく、未熟な子驢馬に乗って入場します。

イエス様にふさわしいのは、いたいけな何も知らない子驢馬でした。ゼカリア書9:9はその一つです。「高ぶることなく、驢馬に乗って来る。雌驢馬の子である驢馬に乗って。」とあります。

高ぶることなく低く成られたメシアなのです。イエス様自身が自分は驢馬で良いのだ、白馬や軍馬は私に相応しくないと思われたのです。イエス様ご自身が無力な見栄えのしない驢馬を必要としたのです。イエス様自身が驢馬のような謙遜な道を選ばれたのです。

 私は76年に神学校に入りました。その時の深い葛藤を経験しながら入学しました。また入学後も3年間の神学生の生活の中で早朝、昼間、夜の祈り等修道院のような生活の中で、厳しく自己吟味を迫られました。また青野太潮先生のギリシャ語原典を学びました時には切れ味鋭い、学問の厳しさ、「職業として学問」の厳しさに触れました。自分の献身の思い、学問することへの甘さと傲慢を深く経験しました。そして自分が牧者としてふさわしくないとまで思い詰めました。しかしこの謙遜になる経験は神の一方的な恵みであることを知る経験でした。私は驢馬にも及ばない者であることを知ります。

3,メシアの入場は祝福の入場

さてしかしイエス様のエルサレム入場は救い主、メシア、助け主、私たちの贖い主が世に来られた喜びの時なのです。

 37節には弟子たちや人々がイエス様を喜んで迎えいれ、19:37-38/声高らかに神を賛美し、メシアに祝福があるように、天には平和、いと高きところには栄光があるように」とあります。マタイとマルコにある「ダビデの子」や「ホサナ・ホサナ」という言葉を省いています。そして「平和の王」という言葉を強調します。そしてクリスマスの時に引用しますことば「いと高きところには栄光神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)と響き合っています。驢馬に乗るとは、軍馬に乗らないこと、平和の主を象徴的に示します。

 「戦争は女の顔をしていない」という作品があります。スウェトラーナ・アレクシェービッチという女性作家の作品です。500名の女性兵士の証言を集めた証言集です。ノーベル文学賞を受けた作品です。その中に女性狙撃兵の証言があります。この狙撃兵は75人を狙撃して殺害、11回の表彰を受けた女性です。その中に次のような証言があります。

「もうじき18歳という時に戦争が始まった。膝まである長いおさげ髪。はじめて狩り(人間を撃つ事)に出かけた時のこと。私は撃つことに決めたの。そう決心した時、一瞬ひらめいた。敵と言ったって、人間だわと。両手が震え始めて全身に悪寒が走った。ベニヤの標的は撃ったけど、生きた人間を撃つのは難しかった。私は気を取り直して、引き金を引いた。彼は両腕を振り上げて、倒れた。死んだかどうかわからない。その後は震えが一層激しくなった。恐怖心に囚われた。私は人間を殺したんだ。これは女の仕事じゃない。憎んで殺すなんて。」

 おさげ髪の少女が人を殺す。それは大変な悲劇ではないかと思います。

平和の主を拒もうとしたファリサイ派の人々は「弟子たちを叱って下さい」と言います。しかしイエス様は「もしこの人たち(ルカでは弟子たち)が黙れば、石が叫び出す。」言います。(19:40

 弟子たちが平和を語ることを黙らせられる時が来る。教会もクリスチャンも平和の主イエスキリストを迎え入れ平和の主を語らなくなる。聖書教育は書いています。「教会が時代の中で沈黙するなら、教会に対して、また教会に代わって石が叫び始めるでしょう。」(P75これはヒトラー政権下で実際に起こりました。反戦行動を取ったのはキリスト者ではない普通の学生、社会人でした。ショルツ兄と妹の二人は処刑されます。神学者ボンフェッファーもまた処刑されました。日本は軍備拡張の大きな曲がり角にあります。私たちは平和の主を語るでしょうか。

4,涙を流すメシア・キリスト

 エルサレム入場は、悲しみの物語です。エルサレムで、イエスというメシアは鞭打たれ、衣をはがれ、唾を吐かれ、茨の冠を付けられ、引き回され、十字架に上げられ、恥を受け、殺されるのです。そこは平和ではなく、人の残忍さと人の「攻撃的な罪」が明らかにされる悲しみの場でした。

19:41エルサレムに近づき、都が見えた時その都のために泣いた」とあります。イエス様は感情を顕わにされます。心乱れるほどの深い思いを持たれたのです。

何故涙を流されたのでしょうか。19:42もしこの日にお前も平和への道をわきまえていたなら、・・・・しかしお前にはそれが見えない。」と言われています。

メシア・キリストが救い主であることを理解することが出来ないのです。キリスト自身が平和への道であることが見えません。

エルサレムでイエス様は律法学者やファリサイ人や同調圧力に染まった群衆によって裸にされ、唾をかけられ、鞭で打たれ、引き回され犯罪人として殺害されます。平和の君は到来されたことを理解することなく排除されるのです。平和のメシア、驢馬に乗るメシアは排除されるのです。

19:43にあるようにエルサレムの石垣は崩され、敵に包囲されてやがて滅んでいきます。これはAD70年のユダヤ戦争の現実を預言しています。ユダヤ戦争は19;44神が訪れて下さる時をわきまえない姿」を示します。

 「神が訪れて下さる時をわきまえる」とはどんな意味でしょうか。神は訪れて下さる時は平和の実現の時です。神が訪れて下さる時とは救いの完成の時です。神が訪れて下さるとは神の国の到来の時です。神が訪れて下さるとは聖霊による平安と平和が実現する時です。神が訪れて下さる時とは永遠の和解が成就する時です。

 今神の平和の成就を私たちはわきまえておくようにとイエス様は語ります。キリストの平和は必ず成就する信仰を希望に生きるようにということでしょう。

私たちは細やかな生活を営む驢馬のような人生です。しかし細やか生活の中に強い信念として、平和への祈りを生きることが大事です。我々は市井の「石ころに過ぎません」がキリストの忍耐、キリストの愛、キリストの平和を生きるように召されているのです。

 

神の御心に忠実であったキリストは驢馬の様でした。ですから謙遜なキリストを乗せる謙遜な驢馬を必要とされるのです。