【神はすみやかに裁く】2023年3月5日ルカによる福音書18章1-8節

「神はすみやかに裁く」202335日ルカによる福音書181-8

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,寡婦の現実

日本の戦争直後1946年の人口調査では前年に比べて300万人女性の数が増えたと言われています。それは多くの男性が戦争にとられ、死んでいったことが原因だと言われています。

夫を戦争にとられた人は戦死した場所も知らされることもなく、どのように戦死したのかも妻や家族に知らされることもなかったと言います。残された家族、妻と子どもたちはほうっておかれたも同然でした。戦後17年経ってから寡婦の方々を法的に保護する法律は作れました。その法律は寡婦になった方々や家族の無産の民の請願によって法律が出来たと言います。夫が亡くなると、家や田畑も相続できず、子どもとともに無一文で生活しなければなりませんでした。ウクライナやミャンマーにおいても夫の戦死の背後には、寡婦になった妻や子どもが取り残されるのです。

新約聖書ではⅠテモテ書5章で当時の寡婦の色々な問題が取り上げれています。AD70年のユダヤ戦争では寡婦がたくさん生み出された背景があります。この個所にによると性奴隷として売られて女たち、家々を歩き回って物乞いをする母たち、再婚などで色々な問題に直面する女性たちの生活を垣間見ることができます。教会はこのような寡婦たちを助ける働きを働きがたくさんありました。寡婦たちは身近な身近な人々でした。

,うるさいほどに求める

 さて、やもめはうるさいほどに祈り求め、訴えました。5:あのやもめはうるさくてかなわないから・・・ひっきりなしにやって来て、さんざんな目に逢わすに違いない。」「7:昼も夜も叫び求めている」とあります。

ひっきりなしにやってきて迷惑をかけるほどに訴えて求めるのです。やもめは生きるのに必死だったのです。誰かから支えて貰わないと生きていけないのです。

わたしども祈りはどうでしょうか。

短時間で祈りは聞かれることももちろんあります。しかし「執拗な祈り」によって祈りは聞かれることがあります。私が三沢教会で8年働きました。新会堂を祈りつづけましたが教会館だけの建築でした。しかし立派な新会堂を建てました。東京バプテスト神学校を鮫教会の方が卒業します。働きながら数年をかけて卒業します。忍耐深い祈りの成就だと思います。その後宇都宮教会に赴任しましたが100万会堂で古い会堂でした。ここも建築計画は出ては消え、出ては消えでした。しかし5年後に新会堂が建ちました。アメリカで学びたいという計画は牧師になった1980年に示されました。忍耐深く祈りつづけアメリカでの学びをすることが出来ました。宣教師に成るビジョンは5年間の祈りの中で実現しました。神学校で教えたいという祈りは40年間の後に与えられました。

今日の個所によく似た聖書箇所があります。11:8-9にも同じような言葉があります。「しかし友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て、必要なものは何でも与えるであろう。求めなさい。そうすれば与えられるであろう。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開けてもらえる。」

誘惑に打ち勝ち、試練があっても諦めず、神の御心にしっかり目標を定めて揺らぐことなく、神の時を待つ信仰が必要だと思います。

「ロマ12:11 怠らずに励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望を持って喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」とパウロは勧めています。

3,叫びを聞き取るにはやい

神は叫びを無視することはなりません。今日の個所で18:7「神は昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わず、彼らをいつまでもほうっておくことはない。」「8:言っておくが神はすみやかに裁いて下さる。」と語ります。

無視され、無きものとされた寡婦は何度も裁判官に訴えるのです。寡婦は昼も夜も訴え続け、自分の苦しみを叫びます。私たち人間はこの寡婦のようにいつも声を上げて救いを求めている者ではないでしょうか。裁判官は傲慢で訴えなど聞くことない者でした。

7節まして神は」とあります。神は裁判官のように無視することはなさらない。裁判官は神様の譬えではないのです。「ましてや」ですから、裁判官以上の方、神様ご自身は裁判官以上に叫び求める者の声を聞く方なのです。

自分の子の泣き声は親なら良く聞き分けるでしょう。他人の子が泣いていれば、「泣いているなあ」ぐらいしか考えないでしょう。しかし我が子であればどうしたんだと気にするし、人に迷惑をかけないかと心配するでしょう。親はわが子の声に敏感に反応するでしょう。聖書の神様は私たちの嘆きや悲しみや祈りの声をしっかり聴いているのです。いつまでも無視する方、無視する親ではないのです。

「すみやかに裁く」とはどういう意味でしょうか。神様はすみやかに、正確に祈りの内容を聞き取り、その祈りが本物かどうか判断を正確になさると意味でしょう。私たちは中途半端な祈りをします。「私たちは出来なかったら良いですから、聞くだけ聞いてください」という祈りをしたりします。これはどうでしょうか。神様は誠実な本気の祈りを求め、誠実な本気の祈りを求められるのではないでしょうか。

 ですからイエス様は、最後の8節で「しかし人の子が来る時果たして地上に信仰を見出すだろうか。」とあります。

「人の子」とは再臨するイエス様のことを言っています。あれをかなえてこれをかなえてと祈るけれども本当に必要で、本当に一身を挺して、誠実に祈っているのだろうか、そういう本当の祈りを持った信仰が見られるだろうかと語り心を痛めているのではないでしょうか。この言葉は本当の心からの祈りをして欲しいというイエス様の願いなのではないかと思います。

また私たちが気を落としたり、失望したり、途中であきらめたり、神様に期待しなくなったり、根気強く祈りつづけることがないまま教会生活をおくることがあるでしょう。だからこそ「18:1/気を落とさずに絶えず、祈らなければならい」と教えられたのでしょう。

今日の聖書教育の説明に素晴らしい部分がありました。大変感動しました。そのまま紹介し、皆さんと分かち合いたいと思いました。P68からの引用です。

 「イエスの祈りは、ご自身の願いを神に届けようとする熱心さではなく、むしろ激闘のような祈りを通して、神の御心をご自分の人生に落とし込み、受けとめるためのものでした。」とあります。

 イエス様の祈りは神の御心をご自分の人生に落とし込むことだと言うのです。自分の願いの達成ではなく、神様の御心が自分になりますようにと祈ったのです。

それは十字架の出来事をご自分の体に負わせること、人の罪をご自分の体に落とし込むことが神の計画であり、神の御心です。その御心がこの身になりますようにと死に至るまで忠実であったのです。

あれをかなえて欲しい、これがかなえられますようにという祈りもたくさんあります。しかしイエス様の祈りはそれだけではありませんでした。イエス様の祈りの特徴は、人の罪を負い、十字架への道を負うという、神様から「与えられた贖罪の道をイエス様自身の体に落とし込む」ことでした。聖書教育はそのことを明確に教えているように思えます。

 私どもは今日主の晩餐式を行います。パンと葡萄酒を受けることは、キリストの生き方を「わたし自身の中に落とし込みます」という告白です。日々の生活の中でキリストの死と復活再臨の信仰をこの身に「落とし込んで生きる」ことを決断する式なのです。