【見失ったひつじ】2023年2月25日ルカによる福音書15章1-10節

「見失ったひつじ」20232月25日ルカによる福音書151-10

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1、導入;失われた人を求めて

 少年マルコはイタリアのジェネバという港町に住んでいました。貧しい家族で生活は大変苦しい。それでお母さんはアルゼンチンに出稼ぎに行きます。マルコは泣いて反対します。マルコは一匹の猿・アメディオを友として地中海を帆船で渡り、大西洋を渡り、アルゼンチンのブエノスアイレスに渡り、パンパの大草原を馬車で越えて、ついにお母さんを見つけ出し、巡り合う物語です。途中で旅芸人ペッピーノ一座と出会ったり、居酒屋でお金を支援してもらったり、叔父さんのメレッリにお母さんの居場所を教えてもらったりします。お金が無くておなか減って食べる物がない時に、貧しい老人から一切れのパンをもらいます。宿を貸してくれたメキーネスさんの娘さんが風邪で死んでしまう等の色々な悲しみも経験をします。色々な出会いと別れを経験して、少年マルコはお母さんを探し出し出会います。「母をたずねて3000里」の話です。

アミ―チスというイタリア人の作家が20世紀の初めに書いた作品です。この本を最初に訳した人は三浦修吾と言う人で、玉川学園を創設者小原国芳の先生でした。三浦はクリスチャン「迷った羊を探す羊飼い」の話と似ていると思って母を訪ねて3000里に興味を持ったそうです。

2、探し求める羊飼い

 15:4「あなたがたの中に百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を残して、見失った一匹を探し出すまで、捜し回らないだろうか。」とあります。

羊飼いは一匹を探して山を歩き、谷を探し、洞窟を探し、水のあるところを探し回り、獣に襲われていないか心配します。「羊を探して回る」のです。茨や石に躓いて怪我をしていないか心配するでしょう。無事を願い、「見つけ出すまで」諦めずに、しつこく、捜し続けるのです。羊飼いは途中であきらめたりしない。忍耐深く失った羊を探し回るのです。たった一匹だからいいだろうということはない。羊飼いは探し続け、見つけるまで愛するのです。99匹を野原に残しておいてでも一匹を探すのです。私たちは、「99匹はどうでもいいのか」とか、「効率が悪い」とか思うのではないでしょうか。

現代人の私たちは無くなったら買ってくればいいとか、なくなったら次のがあるから、あれを使いましょうと、スグに考えます。しばらくは寂しいけどすぐ忘れるから心配いりません。執着するのは良くないです。現代はスグに取り換え可能な人間観にあるように思います。安いものでどんどん取り換え可能な時代です。

神のもとを離れた羊は深く迷うものであることを聖書は書いています。ルカは神は「その遠く迷った羊を一生懸命探し求める神」であることを伝えたいのです。

2,探し求める神

 人が神を探すのではなく、「神ご自身が人を探している」ことを語ります。人は神を探せないほど深く離れています。「人を探す神を人は探している」とも言えるでしょう。

 アダムとエヴァは知恵の実を食べて「神の木」には近づくことができず、神との関係を破って木々の間に身を隠します。神は「あなたはどこにいるのか」と二人に問いかけます。二人は、私たちは自分が裸であることがわかり、木々の間に身を隠していたのです。人は裸を隠す者となりました。

 神は罪に堕落した人間を探し、人間を発見し、隠れた木々の間からはだかのまま出て来るように求めます。それは神様の深い愛です。神様はヘッセッドで人間を探すのです。

 教会とは裸のまま神に見いだされた罪人の群れなのです。神は今日もここであなたはどこにいるのか、わたしはなたを探していると語られているのです。人間という者は迷い出た堕罪にあるものであり、その堕罪した人間を帰ってくるようにと神ご自身はあなたを探し続けているのです。

 この「探し求める神」は「イスラエル」という国に対しても同じです。「私は羊を探してこれを探し出す」(エゼ34:1112)と語ります。

黙示文学的な書であるエゼキエル書でも主なる神は探し求める神として描かれています。イスラエルは民族名でもなく個人名でもなく、国家名です。国家イスラエル」は神の命と神の聖を捨て、偶像に走り国家繁栄の道へと邁進します。しかしその結果「国家イスラエル」は主なる神を忘れ、バビロン捕囚という国家の崩壊を経験します。しかし「国家イスラエル」に対しても主なる神は神のことばや神の命や神の聖霊に戻って来るようにと主なる神自身が探し求めるのです。

良く警察官やボランティアの方々が山で遭難した人、誘拐されていなくなった行方不明者を探す映像を見ます。草を払って、川底迄探して、遺留品靴や持ち物を探したりします。掛けがえのない命が助かるようにと、一生懸命探すのです。

3,喜びの祝宴

 さてイエス様はさらに話を続けています。「15:以下:そして見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友だちや近所の人々を呼び集めて、失った羊を見つけたので、一緒に喜んで下さいと言うであろう。」とあります。

 この喜びは「15:9:見つけたら友だちや近所の女たちを呼び集めて、無くした銀貨を見つけましたら、一緒に喜んで下さいというであろう」とも一致します。放蕩息子の譬えでは、「15:22-24では「急いで一番良い服を持ってきて、この子に着せなさい。手に指輪をはめてやり、足に履物をはかせなさい。それから肥えた子牛を連れて来てほふりなさい。食べて祝おう。この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに、見つかったからだ。そして祝宴を始めた。25:音楽や踊りのざわめきが聞こえて来た」と大きな喜びが書かれています。  

 神はあなたが思う以上に嬉しいのです。羊飼い自身が嬉しくてうれしくてたまらないのです。私たちが恥ずかしく思うほどに羊飼いは喜ぶのです。羊飼いは羊飼いの愛の故に、人が制しても、羊飼いは嬉しいことを隠すことを出来ないのです。それは私たちにとって「あまり溢れ流れ出るほどの羊飼い喜び」なのです。

 羊飼いはいつでもこの喜びを知るゆえに私たちを探そう、捜そうとしているのではないでしょうか。羊飼いはあなた自身を尋ね求め、私たちが神様を探すはるか以前から、あなたを探し求めているのです。

 詩篇の中にこのような祈りがあります。「119:176:わたしが小羊のように失われ、迷う時に、どうかあなたの僕を探してください。」

 詩篇の作者は自分が羊のように迷っている。その時に私を探して見つけて下さいと祈っています。どこにいるのか自分の居場所がわからない。自分がどこへ向かっているのかわからない。私は群れを離れてたった一匹の羊になってしまった。その様な時に、神様あなたがわたしを探してくださいますようにと祈っているのです。[さし1] 神はあなたを探し見つけ出します。

 羊飼いは必ず私たちを探し出してくださる方であることに確信を置いているのでしょう。神はあなたを捨て置かないのです。99対1になった時、99のマジョリティーよりも、1になったマイノリティーになったあなたを大切にします。

4、天にある喜び

 さて最後の部分を読んでみましょう。「15:56;言っておくが、このように悔い改める一人の罪人については、悔い改めの必要のない九十九人の悔い改める必要のない人についてよりも大きな喜びが天にある。」「15:10:言っておくが、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」とあります。

羊飼いが探し回り、見出されて発見されて、出会って、抱きかかえられて再び羊飼いのものとされる。そしてその喜びの祝宴に与る。その時神の国において喜びが湧きあがります。その時神は喜んで天使たちも喜ぶのです。これは羊飼いとの一致、共にいることを示します。これが天の教会です。

天の教会は一匹を迎え喜びます。喜び迎える所です。私たちの教会は、神の国の喜びへの入り口でありたいものです。一切の前提を取り払ってすでに神の国への喜びに招かれている者であることを感謝しましょう。

「羊飼いよ、本当に有難うございます。あなたが探してくださって見つけ出してくださって喜んで下さいます。あなたのもとを離れないようにあなたに従って参ります。感謝をしています。」と天の国の祝祭、祝宴を映し出すのです。イエス様に見いだされ、イエス様がいつも探し出してくださる人生は本当に感謝と喜びに溢れた人生になるでしょう。