【私に躓かない者は幸い】2023年1月29日ルカ福音書7章18-35節

【私に躓かない者は幸い】2023129日ルカ福音書718-35

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1,救い主を求めて

1823節はバプテスマのヨハネの弟子たちとイエス様の対話です。

20:来るべき方はあなたですか?」と問います。まことの救い主はあなたでしょうか。「あなたはメシアでしょうか。だれかほかの人を待つべきでしょうか。」と質問します。

バプテスマのヨハネの「メシア」のイメージはルカ3:17で言われています。バプテスマのヨハネが求めていたメシアのイメージは「麦のからを集めて火で燃やしてしまう。激しい裁き主でした。」激しい審判、汚れた者に厳しい裁きを行い、熱心でない悔い改めがハッキリしない信仰者は燃やしてしまい、もみ殻のような中身のない信仰者焼き捨てる強い裁き主でした。不信仰者は完全に切り捨て、焼き捨てる救い主でした。

 私たちも色々な救い主のイメージを持ちます。中国や北朝鮮が攻めて来るとなると、強い助けぬ主を求めます。日本が軍事予算2倍を計画しているのも、その焦りです。早くやれ、話し合っている時間はない。焦りで強引になります。このままじゃ滅んでしまう。強いリーダーシップを求めるでしょう。

しかしさてこの質問に対してどのように答えているでしょうか。

2,イエス様の答え

イエス様は次のように答えています。

22-23:行って見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、思い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生きかえり、貧しい人は福音を聞かされている。私に躓かない人は幸いである。」

盲人の人は見えるようになる。ろう者の人は聞こえるようになる。貧しい人は福音を聞く。死人はよみがえる。

イエス様は全く社会の最低辺に生きている人々と関り、そのような人々を救う、そのような人々が福音を聞くというのです。イエス様は貧しい人や罪人や神殿に礼拝にも来ない人々と生活する。ヨハネの持ったイメージとかけ離れたものではないでしょうか。イエス様は弱すぎるのでないでしょうか。裁くどころか貧しく弱い人々の仲間になる。一緒に生きる、助ける、憐れむのです。イエス様はマタイ18:6「私を信じるこれらの最も小さい者の一人を躓かせる者は深い海に沈められたほうがましだ。」と言われました。弱く貧しい人々と共に生きるのです。

パウロは「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」と言っています。すなわちユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなもの」なのです。「ギリシャ人であろうがユダヤ人であろうが、召された者には神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えている。」(Ⅰコリ1:23)と言っている通りです。

イエス様はユダヤ人や異邦人にとっては躓きの石となったのです。彼らにとって救い主のイメージではなかったのです。ギャップはひどいものでした。

 この対話最後に「23:私につまなかない人は幸いである」と語ります。

 信仰の道を妨害するものはたくさんあります。お金の誘惑、人と比べて落ち込むこと、自分のエゴ、人からの評判、人をだます秘密の計略、傲慢、祈りのあきらめ、聖書を読まない怠慢、など思いがけない罠が色々なところに待ち受けているのです。多くの人がバプテスマを受けてもイエス様や教会や世の知恵に躓いて教会から去っていくのです。

忍耐深くキリストを祈り求め、キリストの言葉に信頼しましょう。キリストに躓かない人は真の命を得て、永遠の希望と御国へ導かれていくのです。

2,バプテスマのヨハネについて

 次の7:2430節ではイエス様がバプテスマのヨハネについて語り始めます。

26:バプテスマのヨハネは預言者以上のものである。『見よ、私はあなたより先に死者を遣わし、あなたの前に道を準備させる。』」とあります。

バプテスマのヨハネはイエス様の到来の道備えをする役割を担っています。露払いの役目を担っています。イエス様が来られる道筋を整える人です。

神の国で最も小さい者とは、最後まで信仰に生き、神の国の栄光を体験し、神の国へ召されていく人々のことです。そのような人はバプテスマのヨハネよりも豊かに神の栄光を拝するというのです。

バプテスマのヨハネはメシアの到来の道備えをする預言者でした。キリスト者はイエス様の到来を預言する預言者です。教会学校の教師はキリストの到来を語る預言者です。信徒はキリストの到来を語り継ぐ預言者です。牧師はキリストの到来を預言する働き露払いです。万人祭司を主張するバプテスト教会の皆さんは、バプテスマのヨハネの働きを担っています。

キリストが私たち一人一人に聖霊を下さり、十字架の贖いを教えて下さり、復活の力を与えてくださる。永遠の命へと導いて下さる方が、今日も明日も、明後日も、イエス様がここに来られることを語る預言者の働きを負うのです。イエス様がこの交わりと礼拝にも来て下さるので、「その通り道を整える」ことを教会の奉仕と言います。実に最も大切なものなのです。

3,複雑な社会の中で

 さて、2935節は人々の色々な応答があったことがわかります。

29節では民衆がヨハネの教えに従ってバプテスマを受けました。神の正しさを認めました。さらに30節ではファリサイ人や律法学者の専門家はバプテスマを受けることなく、「自分に対する神の御心を拒んだ」とあります。イエス様を拒否する人もいました。

 31節は長い文章ですが、ファリサイ派や律法学者のことが語られます。笛を吹くは結婚式のダンスの笛だと言われます。それを例えに使っています。律法学者が笛を吹いたのに民衆は従わない。葬儀の際に律法学者やファリサイ人が葬儀を行ったのに泣くこともない。ファリサイ人や律法学者は洗礼者ヨハネを悪魔がついていると批判するし、ファリサイ人達はイエス様を徴税人や罪人の仲間だと批判する。

 イエス様は律法学者たちと対立し、民衆はイエスを殺し、ファリサイ人は病人を見捨て、彼らはイエス様を殺害する計画で一杯になる。しなやかな服を着た人々、華やかな衣を着た人々、ぜいたくに暮らす人々(つまりローマから派遣された総督たち)はユダヤの地を支配している。そこに一致はなく、平和はなく、バラバラな社会があり、対立と抗争の宗教上の対立がある。そのような姿が見えます。

 現代と大変良く似ているのではないでしょうか。宗教をめぐって、分裂、戦争、対立、金銭トラブル、カルト宗教、人々を貧困に追い込んでいく宗教、貧しい人々は見放される社会です。現実の世界は今だに戦争や貧困は続いています。日本も使い物にならないジェット戦闘機を購入します。罪の姿は永遠にあり続けます。そのような社会の中でキリストへの服従が求められているのではないでしょうか。

4,わたしに躓かないものは幸い。

 今日の物語の中心を上げましょう。それは23節です。「23:私に躓かない者は幸い」という言葉です。

イエス様は譬えを話されました。石地に落ちた種は根を深く張ることが出来ずに、すぐにかれてしまう。だから石地から地面に深く根を張るようにと語ります。

根を広く深く広げ、養分を吸い上げながら成長しましょう。信仰についての固定観念が石になります。社会的な常識が石になります。今まで大事にして来た習い覚えた信仰が硬くなって石になります。世界の常識が硬くなって石になります。石は永遠にあり続けます。

しかし石の隙間をぬって、信仰の根を深くしましょう。み言葉を信じない人ではなく、み言葉を信じる人になりなさいとイエス様は語ります。

躓かないように忍耐深く「聖書を学び」続けましょう。み言葉を暗記するようにしましょう。賛美をして聖霊の臨在を心に体験しましょう。多くのキリスト者と相談して信仰生活の知恵を頂きましょう。

どんな時代でも「世はすでに崩壊していた」のであり、ただキリスト・イエスのみが永遠に希望であることが、ますますわたし自身には体験させられて来ました。キリストへの献身こそ決して無駄にならない永遠の喜びであることがわかってきたように思います。

 

 キリストの道へ献身しなさい。キリストの姿へ変えられていくように祈りなさい。そうすればキリストの永遠の命があなた自身の死をも乗り越えて栄光に輝く世界へとあなた自身を変革させていくでしょう。キリストは時代と環境を越えて、石地の世界の中で、これからも時代を貫徹していく光であり続けるのでしょう。