【安息の日々】2023年1月22日ルカ福音書6;1-11節

【安息の日々】20231月22日ルカ福音書6;-11

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1,自由なイエス様

 1:弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。2:ファリサイ派のある人々がなぜ安息日にしてならないことをするのかと言った」という出来事から始まります。

「出エ23:26 隣人の麦畑に入る時は手で穂を摘んでも良いが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」とあります。  

律法の大もとは十戒です。国の基本緒憲法のようなものです。他に39箇条の律法があり、この戒律の他にさらに細かい戒律の規定集がありました。それは当時「ミシュナ」と呼ばれました。234禁止条項があったと言われています。ファリサイ人はこれらの既定の研究をする人々だったのです。

「これらの既定を破ることは、公共の秩序を破る事。そんなことをしたら、規定どおりやってください。自由にやりたいのはわかるが、他の人には示しがつかない。」と考えたのでしょう。「お役所仕事」と言う言葉がありますが、規定は守るようにしてほしいということです。私たちの世界でもよくある事です。

 これに対してイエス様は反論してしまいます。3:ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか読んだことがないのか。神の家に入り誰も食べてはならない備えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか」と言われます。

ファリサイ人が知らないはずはありません。ダビデが食べてはならないパンを食べた物語はレビ記24章に出てきます。イエス様はファリサイ人よりも自由に律法を解釈し、律法からも自由になっても良いと考えていたのです。「おなかが減っている人がいたら、食べても良いのではないか。」と考えたのでしょう。ファリサイ派のある人々はそれでは律法を守っていないと考えたのです。それは信仰違反、律法違反の行為であると考えたのです。状況でコロコロ律法を破ってはいけないと考えました。彼ら律法遵守に拘泥して人には厳しい順守を求めました。

愛の実践を第一に考えるイエス様とは対立します。そして「5:人の子は安息日の主である」という言葉でこの物語は締めくくられます。「自分が安息日の主である」と宣言するのです。かなりきつい宣言です。

2,手の萎えた人を癒す奇跡

 6:他の安息日にイエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者やファリサイ派の人々は訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気を癒されるかどうか注目していた。」とあります。

 イエス様はユダヤ教のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)で話しています。日本風に言えば、お寺でお話をなさっていたのです。イエス様の時代にまだ「キリスト教の会堂」はなかった。「7:律法学者やファリサイ人は訴える口実を見つけようとした」とあります。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とあります。人間は人が憎くなると何でも悪い所を、あら捜して、あの人はこんなに悪い人だと告発して、自己弁護に浸ります。相手の弱点をあげつらって自分を守ろうとする時、自分の弱点や罪は棚上げにしてしまいます。

ファリサイ人も責任逃れや言い訳の材料を探していた、失敗の言い逃れをする、責任転嫁を探そうとしていたということでしょう。

律法は守れるファリサイ人や律法学者でしたが、言い逃れや言い訳から自由になっていません。この姿は「原罪を持つ人間の根源的な罪/パウロがロマ書8章で示した単数形の罪を表現しています。

彼らは自分の原罪を隠す、隠れ蓑として律法を着ている」に過ぎません。ですからマタイ福音書で、イエス様は「白く塗りたる墓」と表現し、中は罪で満ちているではないかと言われたのです。わたしたちはどうでしょうか。あなたはどうでしょうか。

2,善悪ではなく命

さてイエス様は8:立って、真ん中に来なさい。」と呼び出されます。そして「10:手を伸ばしない。10:手は元どおりになった」とあります。イエス様は奇跡行為を行います。

 この奇跡行為を行う時イエス様が語れた言葉に注視したいと思います。この部分は微妙な問題なのでよくよくな何度も読む必要があります。そうすることによって、筋道がわかり、文章の内容がしっくり見えてきます。聖書は一度読んでもわからないように書いてあると思います。信仰へ深く導くために、祈りと黙想が必要なように書いてあります。

9:あなたたちに尋ねたい。安息日で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」

 「安息日に律法で許されていること」といわれています。「安息日or律法か」ではない。安息日を守るのが正しいか、律法を守るのが善かということでもない。「安息日」も「律法」自体も、両者にとって重要なことは、「命を救うこと」「命を滅ぼさないこと」であると言います。安息日も律法も大事なことは「命を得ること」「命をほろぼさないこと」ということです。

 イエス様は「命の大切さ」を語ります。「私は道であり真理であり命です。」「私の言葉を聞いて私をお遣わしになった方を信じる者は永遠の命を得る。」「私は命のパンです。」「永遠の命を獲得しなさい」「あなたがたの名は命の書に名前が記されている」「私はあなたの名を命の書から決して消すことは無い。」「世も世にある欲も過ぎ去っていきます。しかし神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」

 イエス様を信じると言うことは良い人になる、善人になることだけではありません。永遠の命を頂くことです。キリスト教信仰は道徳的に完全な人になることは出来ない。信仰的な善悪ではなく、「罪人が永遠の命を経験すると」いうことです。クリスチャンになると善人になると思っている人は多くおります。

 人間は必ず善悪を選びます。漱石の物語をご存知でしょう。「神様はエデンの園に命の木と善悪の知識の木」を植えました。「神様は善悪の知識の木から決して食べてはならない。」と釘をさします。しかし人が食べたものは「善悪の知識の木」の実でした。それで神は「人は善悪を知る者となった。手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる恐れがある」と言ってエデンの園から人を追放します。「命の木に至る道に」剣の炎を置き、入れないようにします。命は木よりも善悪を知り神の如く賢くなる道を人は選ぶ根源的罪人なのです。

イエス様は「永遠の命」を与える方です。イエス様は奇跡を起こし、命を回復します。

さて「人の子は安息日の主である」と言う理解はどのような意味でしょうか。

 いわゆる安息日の理解の一つに「神は創造のあとに休まれた」(創世記2:2があります。これは創造に疲れてしまって神様が一日休息したと言う意味でありません。「休まれた」とは「安息なさった」「深い平安に包まれた。」「神は創造に満足なさり深く安心なさった」という意味です。人間を含め被造全体は神の安息の印なのです。平安、愛、安らぎに満ちた世界を神は創造するのです。それは神ご自身が完全に充足した安息だからです。三位一体の神ご自身が安息であり、命の平安です。

 二つ目はレビ記5章です。ここでは「出エジプト」の物語が安息日の根拠となっています。それは奴隷状態から解放された神の憐れみ(神の平安・安息)に感謝する日なのです。神は苦難から脱出させ「安息」と命を回復するのです。それは神が安息だからです。

 第三番目に安息日はイエス様が日曜日に復活されたことに基づく日です。それは死を克服して永遠の安息を示す神の働きを思い起こす日なのです。

 旧約の神も新約の神も全く同じ神ご自身で「安息」の神であることを聖書は啓示しているのです。

 善悪ではなく「聖霊の命」「わき上がる霊的な命」を回復することが律法の根源なのです。

律法厳守の奥には一層広い世界があります。それは「永遠の命」「命と言う安息」です。それは神ご自身が「安息」という「命」のみを持つからです。

 礼拝とは「安息を得ること」です。それは祈りと聖霊の働き、十字架の贖罪による永遠の命の体験、復活の永遠の命への招きの時なのです。礼拝の本質はその様な出来事を経験するのです。

 説教はつまらない、教会はつまらない、交わりがつまらない、もりあがらない、そんな方がおられたら、丁寧に聖書を読み、霊想の時間を取り、膝まづいて、沈黙して神に聞く時間を是非取りなさいと勧めます。そのようにすることであなたに「聖霊が働き、永遠の命」を体験させるでしょう。それが教会に来る本質なのです。