「赦される喜び」2023年1月15日ルカ福音書5;17-26節

「赦される喜び」2023年1月15日ルカ福音書5;17-26節

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1、中風の者とは

男の人は中風の者であったと言われています。 中風は卒中等で起こります。脳出血で血管障害が起こり、半身不随になったり、運動神経が麻痺して顔面麻痺、腕や手の麻痺、脳やせき髄の炎症も起こります。イエス様の時代には心身に障害を持った人は、汚れた者、悪魔に打たれた者、役に立たない者、「神から見放された者」「罪人」として差別されるのがあたり前の社会でした。律法学者やファリサイ派の宗教家はこのような人とは接することがなかったのです。

この前バスに久しぶりに乗りました。運転手さんが車いすの方を乗せて

フックで固定する働きをしていました。ここまで来るのに50年くらいかかったなあと感慨深く思いました。ハンディのある人は交わりになかなか参加できないことを痛感します。

2、共に生きる人々

 「18:すると男たちが中風の人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエス様の前に置こうとした。しかし群衆に阻まれて、運ぶ方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を吊り降ろした。」とあります。

男たちがどんな人々であったか記されてはいませんし、どんな思いで運んで来たかも書かれていません。彼らはイエス様に連れて行けば癒されると考えたことに間違いはないように思います。そして瓦を壊し、家の天井を壊してイエス様のもとに、イエス様の足もとに置いた。イエス様の最も近いところに、瓦を剥がしてでも置いたのです。中風の人を助けたいと思う人々がいるのです。「20:イエスはその人たちの信仰を見て、人よ、あなたの罪は赦された」と宣言します。

中風の人の癒しは交わりの中で癒されるのです。人と人の関連の中に入れられる時癒されるのです。癒しは社会性、コミュニティー、コミューンの中で起こることをイエス様は語ります。

さらにイエス様は中風の者に、「人よ」と呼び掛けています。それは「物体」のように扱われることがないことを意味します。「人」は神の創造された「大切な人間」なのです。しかも神の愛によって創造された、大切な神さまとの対話の相手なのです。すべての人が「18:イエスの前に置かれた」存在なのです。

ユダヤ教の哲学者ブーバーの言葉です。神様と私の関係は「我(人間である自分)と汝(あなたという神ご自身)」という人格的な関係である。決して、「我(人)とそれ(物)」という関係ではないということを語りました。これは傑作中の傑作の作品です。現代は人間が機械の一部のように扱われます。いつでも取り換え可能機械の一部のように取り扱われます。しかし神様との関係は「人格的で取り換えのきかない我と汝の大切な関係」なのです。イエス様はそのように「人よ、あなた」と人格的な関係に呼び出しています。

さらに「あなたの罪は赦された」と

宣言します。この「罪」は複数形が使われています。単に不信仰の罪という意味だけではないないのです。中風の人は色々なレッテルを貼られたのではないでしょうか。「お前は病気になって使い物にならない」「中風になったのは先祖のたたりだ」「病気になって汚れている、神から見放された罪人だ」「自分は社会からはみ出した余計者だ」「自分は家族にも知人や友人にも迷惑をかける余計な存在だ」と人も自分も考えていたのでないかと思います。

 しかし彼には助け手があり、運んでくれる友人たちがいたのです。本人の思いとは違いイエス様のひざ元へ連れて来る人々がいる。「友人たちがいるよ。あなたは罪赦されて愛されているよ」とイエス様は語るのです。病む者は人々の中に受け入れられ、関係の中に入れられ、孤独ではないというのです。罪人は決して孤独ではないのです。

3,赦す権威は誰が持つか

 しかしファリサイ派の人々や律法学者の人々は次のように問いかけます。「21:ところが律法学者やファリサイ派の人々はあれこれ考え始めた。神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神の他に、いったい誰が罪を赦すことができるだろうか。」

さすがに熱心な信仰深い人々です。彼らは色々考えます。しかし信仰熱心が的外れ、罪となります。

第一に苦しんでいる人事体に目が向かなくなります。彼らは憐れみと愛をないがしろにしているのです。目を向けるべきは「中風の人」なのです。苦しんでいる状態が目に入りません。他者の喪失です。

第二に正論を語ります。「神以外に罪を赦す者はいない。」と。しかしこの言葉はその神の赦しを授け、神の赦しを宣言するのは「自分たちなのだ」という意味を含みます。正当なユダヤ教の組織を持ち、人々からも委託され、世の常識となっている「神の赦し」はその制度の担い手である自分たちが行うのだという正統性を主張しているのです。「神以外に赦す者ない」と言いつつ実は自分たちの宗教的権威を振り回しています。このような倒錯した宗教は実は教会の中でも起こるのです。

4,イエス様の問いかけ

更に対話をイエス様は続けます。「21:律法学者やファリサイ派の人々はあれこれ考え始めた」ということに対してイエス様は「22:彼らの考えを知って」「22:何を考えているのか」と問いかけます。

イエス様はファリサイ派の人々や律法学者が何を考えているかを見抜き、洞察し、裏側に隠された欲を見抜いています。そこでイエス様は彼らに問いかけます。「23:あなたの罪は赦されたというのと、起きて歩けというのとどちらが易しいか。」と問います。皆さんはどう答えるでしょうか。罪の赦しでしょうか?奇跡的な出来事でしょうか?あなたはどう思いますか?

しかしこの問いかけは「いわゆるオープンクエスチェン」です。「どちらが易しいか」を選ばせる質問です。選ぶことによって相手が何を考えているか自主的に表現させる質問です。

しかしこの問いかけは実に回答することが困難な質問です。第一に「二つとも重要であって、易しい(イージー)かどうか」の問題でないからです。第二に「人を人間として扱うことはここでは二者択一の問題」ではないのです。

ですからイエス様は二つのことを同時に行います。「24:人の子(つまりイエス様)が罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と宣言します。「罪の赦し」について宣言します。そしてこの罪の赦しを証明する形で「24:起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と言います。すると肉体的な奇跡が起こり、家に喜んで帰るという社会的な奇跡も起こります。

「罪の赦し」と「奇跡行為」と「社会への復帰」は深く結び合って、連続しているのです。罪を赦される喜び、体が癒される喜び、そして家に帰り社会との関係の中に入っていくという全体的な奇跡(最近よく使われる言葉で言えば、ホーリスティックな)が起こっています。

5,驚くべきこと(パラドクサ)

 最後の部分を読んでみましょう。

「25:神を賛美する」「26:人々はみな大変驚き、神を賛美した」とあります。

26節に「驚く」という言葉が2度出てきます。「26:人々は大変驚き」、同じ26節の最後の行に「今日驚くべきことを見た」とあります。

ギリシャ語の原文を読みますと「驚くべきこと」は「パラドッドクス」という言葉です。「パラドクサ」で「全部の栄光」という意味です。普通は「逆説」で使われます。逆説とは「一見真理に背いているように見えて、実は真理を言い当てていること」です。例えば「負けるが勝」がそうです。普通は「負けは負けで勝ちではない」しかし状況によっては「負けることが勝ちにもなる」ということでしょう。

聖書は「イエス様の勝利は逆説な栄光のだ」というのです。「神賛美は逆説から起こる神の栄光」というのでしょう。それを「驚き」と翻訳しています。

どういう意味か考えてみました。

人々は「21:神を冒涜するこの男は一体何者だ。」と人々は言います。イエス様は神を冒涜し、罪を赦す権限はなく、ただの「大工のせがれ」である。実はこの方が「神を啓示する」神の子なのだということです。キリスト教の「驚き;パドックス/para doksa/逆説」を示す出来事が聖書の中心なのです。

立派な律法学者やファリサイ派の人々、世間の人々はキリスト殺害者となったことは私たちが傾聴すべき大切なことです。私たちもまたそのようになる可能性が充分にあるからです。低くなられたキリストに充分耳を傾けるものでありたいと思います。