【誘惑を打つ】2023年1月8日ルカ4章1-13節

【誘惑を打つ】202318日ルカ41-13

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イエス様は「1:聖霊に満ちてヨルダン川からお帰りになった」とあります。イエス様が「聖霊に満たされた方」であることを示します。しかし「1:聖霊はなおイエス様を引き回します。」さらに「2:40日間悪魔から誘惑を受けた」とあります。この長い戦いは聖霊の勝利、イエス様の勝利を完全に示すためでした。今日の物語は悪魔との対決の物語ではないのです。聖霊/イエス・キリストが悪魔(ディアボロス)を退けて、勝利する物語なのです。

1,空腹の中で

第一に「2:何も食べず、空腹を覚えた。3:神の子ならこの石に、パンになるように命じたらどうだ。」

悪魔は言います。「神の子イエスよ、お前が全能者なら、その力と権威を使って命じたら、パンも石になるだろう。イエスよ、お前の力と権威と奇跡を起こす力を見せよ。そうすれば空腹も満たすことが出来るのだ。」と言うのです。

奇跡的に病気が治る、奇跡的な大逆転劇、アンビリバボー、ミラクルドラマなど、人は奇跡としか言いようのない出来事を望みます。神がかりな出来事を求めます。空腹も奇跡的に満たされたなら人は「神」を認めます。「空腹も満たし、さすがだ」と人はイエス様に感動するでしょう。奇跡は神の働きを示す良い機会です。神を喜び賞賛すべきことです。人は神に服従し信じるのでしょう。

しかしイエス様は「4:人はパンだけで生きるのではない。」と答えます。マタイは「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いています。

「奇跡を起こして評価を得る人生」よりも「神の言葉に生きる事」は一層大切なことです。もっとも大切なことは、「神の言葉に生きる事」があることを示します。「神の言葉への服従」は「奇跡よりも大事」なのです。「見た目の奇跡」は起こらなくても神の言葉に服従して敗北するように見える事もまた奇跡」なのです。十字架がそうなのです。

2,世界のすべての国々を見せる

 悪魔は簡単に引き下がる者ではない。再びイエス様に迫ります。

5:一瞬で高く引上げ、6:一瞬のうちに世界の国々を見せます。」さらに悪魔は言います。「7:この国の一切の権力、繁栄とを与える。私にはそれが任されている。これと思う人に権力と繁栄を与えることができる。もし私を拝むならみんなあなたのものになる。」

世界を支配し、手に入れることは実に素晴らしいことです。世界の支配者になることは人が誰でも望むことでしょう。業界一位、神奈川で一位、学校で一番、日本で一番、世界で一番は、実に魅力的な意味あることでしょう。

人が魅力を感じるのは、金と人事と利権の欲です。お金を握りたい、お金を動かしたい、お金を支配して仕事や人を動かしたい。人を選んで、人を呼んで、立場を与えて、仕事をさせて、人事を取り仕切りたい。自分がやっていることの満足を得たいのです。

権力と繁栄を手に入れるためには善人でいることは不可能であることは世の常識です。必要ならば嘘も裏切りも汚れた仕事も必然です。法に触れない賄賂や秘密のお金も必要です。人から傲慢と言われても自分の信念や願いを達成するには、平気になり、良心など嘘くさいのです。キリスト者であってもこの様な誘惑や策略と無関係ではありません。自分が支配し、コントロールし、自分が世界を仕切る中心人物に成りたい。これは欲望の始まりです。ディアボロスは囁く。「私を拝んだらそれらを与える。」

しかしイエス様は「8:あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」と答えます。イエス様は申命記6:13を引用して悪魔を打ちます。エジプトからイスラエルの人々を解放した神に仕えよと言います。「人から解放されて、神の言葉に服従するように」と語っています。

神の言葉は人間のさかしらな知恵から解放します。神の言葉は人間の束縛や人間の悪魔的な支配欲や権力欲から自由にする根源的な知恵と力です。十字架の道は誘惑を退ける神の言葉の道です。

4,主を試みる誘い

 それでも悪魔は引き下がることはありません。「9:悪魔はエルサレムへ連れて行きます。神殿の端に立たせます。神の子ならここから飛び降りたらどうだ。神は天子たちに命じて、あなたをしっかり守ってくれる。あなたの足が石に打ち当たることなく、天使の手であなたを支える」と言います。

これらは詩篇91篇です。悪魔は詩篇91篇を用いて誘惑をします。悪魔は聖書を用います。聖書の言葉が成就することに、何の悪かろうこともありません。素晴らしいことです。人が望む願いです。ディボロスはこれを悪用します。「神の子ならできるだろう」と。悪魔は聖書を根拠にしてイエス様を誘惑するのです。「聖書の言葉を信用しない者は不信仰である。これを利用します。理由づけにして誘惑します。

これは創世記3章を思い越させます。「へびは女に言いました。『これを食べると神のようになる。』」と。神のようになること、キリストの姿に似た者となることは一見素晴らしいことのように思えます。それは実に私たちが時として願っていることです。神は私たちを守り、私たちが落ちて怪我をすることから守る。天使は私たちの守護者として働き、災難に遭わないようにしてくれるものだからです。常に私たちを悪の道、試練の道、誘惑の道、災難の道から、神は守るのは当たり前でしょう。悪魔はこれら聖書信仰を利用するのです。

しかしイエス様はこう語ります。「12:あなたの神である主を試してはならない。と言われている。」

これも申命記6章の引用です。「主を試みてはならない」と答えます。イエス様は「悪魔は聖書を使って本当に神が救うかどうか」を試そうとした。神と取引をするのです。助けたら信じよう。助けないなら、それまでのことで、さようなら。それは神との駆け引きです。さらに「イエス様が本当に神を信頼しているかどうかを試そうとした」ことを、悪魔は内に隠しているのです。しかしイエス様はこの悪魔の策略を退けます。聖霊の力に満たされたキリスト、聖霊であるキリストはこれを退け、打つのです。

5,再び現れた悪魔

 「13:悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」とあります。時が来るのを悪魔は待ちます。悪魔は自分の力が働き、効き目がある瞬間を狙っているのです。一時イエスを離れます。再びその瞬間が来たときの様子が聖書に書かれています。それは23章、十字架の場面です。

23:35/議員たちもあざ笑って言った。他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うが良い。」「同:兵士たちも侮辱していいます。お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」さらに「同:犯罪人の一人はイエスをののしって言います。お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

これらは悪魔が姿を隠した言葉です。4章では3節と9節で2回悪魔は「神の子なら、できるだろう」と言いました。「メシアなら、人を救う者なら、十字架ら降りてくるのは当然だろう。というのです。奇跡を起こせ、十字架の苦しみから自分を救え、神がスーパーマンのように降りてきて奇跡を起こし、苦しんでいるキリストを救えというのです。

 しかしイエス様はこの誘惑に落ちることありません。何故なら十字架の道こそが「神の道」だからです。4章的に言えば、「十字架の苦難は神の言葉で生きる道」であるからです。「十字架の苦しみは主のみを礼拝する道、主にのみ仕える道」であるからです。「十字架の道は復活と言う天使の支えにも増す永遠の救いの道」を行くことだからです。

イエス様は人の目から見たら、敗北に見える道、弱さと惨めさに満ちた道こそ勝利の道であることに献身されたのです。十字架の道はあらゆる欲望の終わる道、悪魔の誘惑が終わる道なのです。

「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵ある悪魔がほえ猛る獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏み留まって悪魔に抵抗しなさい。Ⅰペテ5:8」と聖書は語っています。悪魔は苦難の十字架を避けさせます。これに注意しなさい。

「私はサタンが稲妻のように落ちるのを見ていた。蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる権威に打ち勝つ権威をわたしはあなたがたに与えた。悪霊があなたがたに服従するからと言って喜んでならない。ルカ10:17

 わたしたちは聖霊に導かれ、引き回しに会い訓練されて、悪魔を見破り、神の十字架を負うように召されているのです。そのような生涯を生きるようにと召されているのです。