【手さぐりの人生】2023年1月1日 ルカ2章41-52節

【手さぐりの人生】202311日 ルカ241-52

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1,2:4145:キリストをさがす

 「2/41過越祭には毎年エルサレムに旅をした。イエスが12歳になった時も、祭りの慣習に従って都に上った。」とあります。

過越の祭りは外国に住む「離散のユダヤ人(ディアスポラ)」の人々も流れ込んできます。数万人に膨れ上がる一大イベントです。贖罪のための羊や牛や鳩を売る店が並び、木枠に牛や羊を吊るして解体する人達で溢れました。羊や牛の血の臭い、脂肪の臭い、内臓の臭い、殺される動物の悲鳴、祭壇で羊や山羊や牛を焼く臭い、立ち昇る煙で路地や広場は満ちる。そんな街でマリアとヨセフはイエス様とはぐれてしまいます。

二人は45:町中を探しますが、見つからず、親類や知人の間を探して回りました。」両親は「イエス、イエスどこいるの」と叫んだのではないでしょうか。自分の子どもが行方不明になるニュースを良く聞きます。川に落ちたのでは、連れ去られたのではないか、警察やテレビも使って、親は必死で探します。子どもに対する思いはヨセフとマリアと違いはないでしょう。

 6年前に親戚が心臓の手術で子どもを失いました。大きなショックを受けて今も心の奥の悲しみは消えません。子を失うことは大きな悲しみと痛みを受けます。それは掛けがえのない命に直結しているからです。

 私たちの信仰生活もそうです。「イエス様、イエス様、どこに行ったの?」とイエス様の名を呼びながら過ごすこともあります。私たちは信仰の喜びが病気や喪失や期待外れの体験で、一瞬で落胆に変わることもあるのです。そんな時に「イエス様、イエス様、どこにいるの?」と呼ぶのはないかと思います。  

ミャンマーのための祈祷会に出席しています。子ども失い、家を失い、家族を失い、夫が逮捕されてゆく不明になった方の話などを毎回聞きます。聞くたびに「イエス様、イエス様あなたはどこにいるのですか?何をしているんですか?平安を見つけることが出来ません」と祈る以外にない。手さぐりでキリストを探すヨセフとマリアの様です。

48:お父様も私も心配してあなたを探していたのです。」という、ヨセフとマリアの気持ちはよくわかります。迷子になった子ども叱る時のように、「どこにいたの、何をしていたの、どうしてしっかりお母さんの後をついてこなかったの。一生懸命探したのよ」と言うでしょう。二人の気持ちもわかります。深い心の分かち合いです。

 

2,イエス様の言葉

 さて、見つかったイエス様の言葉をもう一度読んでみましょう。49:するとイエスは言われた。どうして私を探したのですか。私は自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」とマリアに応えます。

 イエス様は自分が迷子になったことを正当化しているのでしょうか。神殿にいたことを知らない両親を上から目線で、叱っているのでしょうか。「私はいるんだから、ごちゃごちゃ言うのは信仰がない。」と言っているのでしょうか。

49:私が父の神殿にいるのはあたりまえである。しかし50:両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。」とあります。

どんな意味かを少し説明したいと思います。ここで「父の家」とは父ヨセフの家でないことは明らかです。父とは「天おられる父なる神」を指しています。さらに「当たり前である」という言葉は説明が必要です。ギリシャ語では「デイ」という言葉です。その意味は「私が父の家にいることは定められている。」「私は神様の目的を達成するために父の家にいる必然性がある」「私は父の家に居ることが計画されている」と言ったニュアンスを持ちます。そこから「父の家に居るのは当たり前である」という意味になります。

この「デイ」は全部で10回使われています。最も有名な個所は「/22: 人の子は多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、殺され、三日目に復活することになっている。」です。「復活する」ではなく、復活することに「なっている。」です。

ここで「デイ」が使われています。

それはそのような運命に定められている、そのような神の計画の中にいる。イエス様は「神が定めた運命を生きる方、神の使命を果たすために決定された方である」ことを告げています。

もっと考えてみましょう。この物語はまさに神殿はまさに「過越の祭り」が行われていた時です。「過ごしの祭り」は出エジプトの際に羊の血を鴨居に塗ったところ、神の災いが通り過ぎ去ったこと体験をしました。これが元になって「過越し」の祭りになりました。イエス様が「過越しの祭りに神殿にいる」とは、自分が「過ぎ越しの羊」であることをも意味します。それは十字架の贖罪を予見させます。

現代でもこのことは言えます。教会は毎月主の晩餐式を繰り返し、主の贖いを感謝します。教会はキリストがいる神殿なのです。教会とはキリストが神と共にいる神殿なのです。ですから

ヨセフとマリアは「神の働きを負い、私たちの罪を背負うキリストを探し出した。」ということにもなります。  

ヨセフとマリアは自分の息子を見つけたばかりではなく、贖い主・イエス・キリストと出会ったのです。  

 キリスト者は神と共にいるイエス様にマリアとヨセフとのように出会うのです。私どもは今日キリストがいる神殿の中で礼拝をしています。  

最後の5052節を読んでみましょう。「51:母マリアはこれらのことをすべて心に納めていた。」とあります。マリアはイエス様が語られた不思議なことばを心に納めました。完全には理解できなかったかも知れません。しかしマリアはイエス様の言葉を不思議に思いつつ、心に納めました。「51:イエス様はナザレに一緒に降り、両親に仕えてお暮しなった。」とあります。イエス様は私たちに仕えて一緒に暮らしてくださるでしょう。そして十字架、復活、愛、贖いの意味等を生きた生々しい生活の中で、少しづつ豊かに知らせて下さるでしょう。

皆さんはエマオへの途上の絵をご存知でしょう。大きな木に囲まれた道。日差しが差す静かな道。ゆっくりと歩いていく二人の弟子と白い衣のイエス様の三人。その姿を後ろから描いています。大変ロマチックな絵です。

私どもの生活は時に救い主とイエス様と気付かず歩いていく生活です。

しかし一歩一歩人生の道、生活の道を歩きながらイエス様はご自分が救い主であることを、日々一層深く知らせてくださるでしょう。

今年もイエス様ご自身が一緒に私たちの世界に降ってくださり、私たちに仕えて下さり、信仰の豊かさを教えて、説明してくださろうとしているのです。私たちの下にいる、私たちに仕えて下さるキリスト共に歩き続けましょう。