【マリアとエリサベト】2022年12月18日ルカ1章39―56節

【マリアとエリサベト】20221218日ルカ13956

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1,神を喜ぶ

 「1:47私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜び讃えます」と始まります。「1/13(生まれて来るヨハネは)喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」「エリサベトに天使が:1/35聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたに宿る」「1/41エリサベトは聖霊に満たされて声高らかに言った。」「1/64たちまちザカリアは口が開け、舌がほどけ、神を賛美し始めた。」「羊飼いは:2/20:羊飼いたちは見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」「老祭司シメオンは:2/28シメオンは幼子を腕に抱き、神を讃えて言った。私はあなたの救いを見た。」「84歳のアンナは2/38シメオンに近づいて来て神を賛美した。」

 クリスマスの物語は全体が祝福と喜び、感謝と賛美に溢れています。イエス様誕生は喜びの出来事です。私たちも共に喜びを現わすクリスマスにしましょう。人生は神様が関わって下さるときに希望や喜びにあふれるのです。

2,聖霊が働きによる喜び

 喜びに溢れた出来事の根源は何なのでしょうか。それを読んでみましょう。

1/29:エリサベトは聖霊に満たされて言った」。「1/25マリアは:聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」と告げられる。「1/15 ; 生まれてくるヨハネは聖霊に満たされている」「1/67父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。」「1/25ーシメオンは:イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼に留まっていた。1/26:主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。1/27シメオンは聖霊に導かれて神殿に入った。」とあり、シメオンは神殿で幼子イエスを祝福します。

 クリスマスの物語は聖霊の物語です。聖霊が働くことで喜びがあふれるのです。聖霊が喜びを運んでくる。聖霊が神の豊かさを教えてくれるのです。それがクリスマスです。キリストの誕生とともに聖霊の到来の時なのです。聖霊が細やかな私たちに関わってくださるということの体験ではないでしょうか。聖霊が宿り、聖霊に囲まれ、聖霊の力が私たちに宿るのです。

3,聖霊によって起こされること

このような神が働くこと、また聖霊が働くことでどんな体験をしたでしょうか。

マリアやエリサベトは神の眼差しを体験します。

それが4849節に書かれております。「1/48身分の低いこの主のはしためにも目を留めて下さったからです。1/49力ある方が私に偉大なことをなさいましたから。」とあります。「身分の低い」という言葉は、心の状態については、「心が折れて、しおれている、意気消沈している」。人の人格に用いられる時は「謙遜で奥ゆかしい」。果物などの質が悪いものには「おいしくない」と訳されています。

 今日しおれている人はいませんか。今日意気消沈している人はいるでしょうか。「教会、こりゃ少しまずい状態だなあ」と思っている方もあるでしょう。神様はそのような状況に「1/48:目を留める」のです。「目を留める」は「ほら、よく見なさい。」「忘れないように目を凝らして見て、忘れないようにしなさい。見て記憶しておきなさい。」という言葉です。神様はよく見ておられ、貧しいマリアを「神様ご自身が幸いな女と記憶している」のです。永遠に記憶している出来事だという意味です。大いなることとはマリアに起こったことは、誰にとっても普遍永遠に大切なことだという意味です。  

4,過激な変革

さらに聖書は過激な三つの告白をします。51/思い上がる者を打ち散らす」「52/権力ある者をその座から引き下ろす」「53/富める者を空腹のまま追い返す」社会の秩序をひっくり返すようなことです。

先週はマリアと天使、マリアと神様の対話によって、神の真理が一歩一歩啓示されていく姿を話しました。

真理が対話によって明らかにされていくという方法はギリシャ哲学の一つの形式です。ソクラテスの対話、プラトンの対話編、アリストテレスの対話編等はその代表です。対話によって神の真理は啓示されます。現代でも「アクティブラーニング」という方法が教育で取り入れられることがあります。   

しかし古代では真理の対話は男性に限られています。語る者も問う者も男性です。また哲学、医学、法学などのすべての学問は男性のものでした。女性は売買な能な奴隷であり、哲学や宗教の分野には縁のない者でした。女性は第二の性以下の者でした。

これに対してクリスマスの物語は女性の物語です。女性に「神の真理」が啓示されていく物語です。一介の細やかな田舎のマリア、年端もいかないマリアに神の真理であるイエス・キリストが啓示されるのです。

それは紀元後1世紀の世界にあってはまさに革命的な出来事です。神は抑圧され、底辺におかれ、世界の余白に追いやられ、人権もなく、奴隷として扱われている女性が、いわば枠外から変化を起こして行ってしまう物語です。

罪人である人間が形成する社会は「罪の社会」です。良き社会を作ろうとして、人間そのものを取りこぼしていきます。

男女差別のある社会、貧困の格差がある社会、権力者がその権力を使って自国の国民を力で支配する社会は、「天地を創造した神の平等」に反します。

ですから神、聖霊、キリストは抑圧によって支配する社会にチャレンジし、否を唱えるのです。「罪ある社会」は神の創造の世界ではないからです。神は「創造の世界を回復」しようとします。それは「神ご自身」が平等を回復しようとする運動なのです。

ルカによる福音書には多くの女性の物語が採用されています。1-2章のマリア、エリサベツ、シメオンの妻アンナ、7章には息子を癒されるナインの寡婦、8章には主に仕えるヨハンナ、スザンナ、無名の女性たちの一群、13章では腰が曲がった女性、18章ではしつこくイエス様に食い下がる女性、23章には十字架上で殺害されるキリストの下に静かにたたずむ女性たちがいます。

これらの物語すべて「ルカの独自の資料(L資料)」と言われ、マタイやマルコにはない独自の資料です。1-2章のクリスマス物語はルカにしかありません。ルカによる福音書自体が当時は「革命的、変革的な書」であったのです。