【ヨハネ誕生の約束】2022年12月4日ルカ1章5~25節

【ヨハネ誕生の約束】2022124日ルカ1章5~25

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1,神の言葉は聖所で語られる

 ザカリアは「5/アビヤの組」の祭司で祭司家系本流の出身です。またエリサベトは「5/アロン家の娘」で彼女も正統祭司の家系です。当時約2万人の祭司がいたと言われます。その中から籤で選ばれます。エリサベトは不妊であったと書いてあります。アブラハムとイサク、イサクとリベカ、ヤコブとラケル、エルカナとハンナ、サムソンの母・マノアの妻等です。それは、妊娠は神の出来事であること、不妊とは「女性蔑視、性の男性優位」に立たないようにという意味が含まれています。天使・神の言葉は「9/主の聖所」「9/香を焚く」「11/香壇の右」で語られます。

私は毎週説教をします。説教は5分や10分でできるものでありません。何度も読み返し、文章を作り、霊想するほどに神の深み、言葉の深みへと進んでいきます。際限なく神の霊的世界は広いものです。毎週の牧師の説教は神との聖域の中で造られると実感します。聖域の中で言葉や神の思いは与えられます。黙想をする。神を祈り求める。神の言葉を何度も思い巡らす。これぞと思いますが、更に正確で深い霊的世界へ導かれます。聖霊の体験も一度ではなく、繰り返されて深くなり、心は刷新されていきます。一度や二度のひらめきや思い付きは神の言葉にはなりません。

人の言葉や自分の感情から隔絶された聖域を作る、聖域に入る。聖所のない信仰は神の言葉を知る事ができないでしょう。ザカリアはこの聖域の中で神の言葉を聞くのです。

2,神の言葉は沈黙させる

 さて「12/ザカリアは天使を見て、恐怖の念に駆られます。」さらにザカリアは語られた天使の祝福の言葉に「18/何によって私はそれを知る事ができるのか。私は老人ですし、妻も年をとっています。」と反論します。自分の現実では受け入れがたいものでした。それは事実です。

ザカリアは「22/口が利けないままになります。」彼は天使の言葉に強いショックを受けたのです。現代で言う失語症のように見えます。神の言葉はすぐに理解できません。神の言葉は人を沈黙させます。人は神の言葉の意味や内容を最初から全部わかるわけではありません。しかし現代は、すぐに、早く、わかりやすく、簡単にわかることを求めます。3分間クッキングのようです。早い簡単旨いを求めます。

しかし神の言葉は「不思議」として人に迫り、神の言葉は理解しがたい言葉として迫って来るのです。神の言葉を理解するには、どうしても祈りと霊想が必要です。私たちがまだ目で見ず、心に思い浮かばなかったことを神の言葉は知らせるからです。最初こうかなあと思い巡らしますが、どうも的を得ない不十分さが残ります。再度祈り求めて理解したことを文章にします。しかしそれでも、モット深淵な御心があるのでないかと不十分さが残り、主と対話を重ねます。その繰り返しによって神の御心の不思議な神秘へと到達します。

ザカリアも天使の言葉を問いつつ、疑いつつ、思案しつつ、神の言葉の前に沈黙を余儀なくされます。ザカリアは不信仰なのでありません。神の言葉とは、「霊操する時間」を求めます。

信仰生活とはこの体験をしっかりすることです。ザカリアは疑い深い信仰者ではありません。むしろ実に信仰深い、神の言葉の意味や価値を探り求める霊的な旅人なのです。

3,神の言葉は十字架を意味する

 さて天使の言葉自体は祝福に満ちた言葉でした。「男の誕生であり」「主の霊に満たされた子」であり、「ぶどう酒や強い酒を飲まず」に旧約のナジル人の誓いに生きたサムソンのような信仰を持つと言われているように考えることができます。

しかし生まれて来るヨハネは、エリサベトとザカリアの思いを超える部分があったように思えます。それは16/イスラエルの人々を主のもとに立ち帰らせ、エリヤの霊を持ち、準備の出来た民を主の前に準備する」という部分です。

エリヤはBCC、列王記に出て来る人物です。エリヤはアハブ王の偶像礼拝を攻撃し、国家の破滅を預言します。カルメル山でバアルの預言者と対決し、アハブ王の妻で、悪妻として名を馳せたイゼベルの反撃に合い、神の山ホレブ山に逃げ苦難の人生を歩みます。またナボとのぶどう畑の事件では王の偶像礼拝を告発し、アハブ王と妻イゼベルの迫害を受けます。祭司は神殿で働きますが、預言者は神殿の外で戦います。

火の車に迎えられて天に消えて行ったエリヤが聖書の出て来るのは、マタイ17章、山上の「主の変貌」の際に、預言者の代表として数えられています。そしてイエス様は「エリヤはバプテスマのヨハネにおいて既に来ている。」と語ります。(マタイ17:11

このようなエリヤの霊を受けたヨハネは、ヘロデの結婚や性的な堕落を批判した罪でヘロデによって「首を切られてその首と頭を盆に乗せられて」さらしものにされるという無残な死に方をします。キリスト・イエスと同じように為政者によって殺されるのです。イエス様は「エリヤの再来であるバプテスマのヨハネのように、イエス様自身が苦しめられる」と預言しています。

天使の言葉は実に祝福に満ちた喜びの訪れでした。しかしエリサベトもザカリアも生まれて来たヨハネも、イエス様のように、十字架の苦しみを負う家族であったのではないでしょうか。彼らは苦難をも引き受ける家族となったのです。

 キリストの母マリアに対する天使の語りかけは祝福でした。しかしそれは十字架へ続く神の道でした。十字架無しの祝福はあり得ません。

最も愛に生きたイエス・キリストの道は喜びと感謝の人生でした。しかしまたその道は「死に至る、しかも十字架の死に至る」苦難の道でもありました。神の言葉を生きるとは、喜びと祝福の道であり、十字架と苦難の道であります。

 

十字架につけられ、あざけられたたキリストの苦しみは私たちの信仰の姿です。このドロローサ(悲しみの道)を通して私どもが一層深く神の祝福に至る道でもあります。我々教会はキリストの祝福の十字架の体を受け取るのです。