【喜びの声を上げて】2022年11月27日ルカ福音書4章16~21節

【喜びの声を上げて】20221127日ルカ福音書4章1621

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1,神が使命を与えられた

 アドベントが始まりました。世に生まれたイエス・キリストがどんな方であるかという事を語ります。

第一に、「18:主がわたしの上におられる。」「18:主がわたしに油を注がれた」という節です。

「天地創造の神、出エジプトやバビロン捕囚から解放した神、律法や正義や愛や憐れみ、知恵や深慮」を示された旧約の神は、「私=イエス・キリストご自身の上にいる。」とあります。上にとは神ご自身が遣わし、神ご自身の使命を果たすことを意味します。また常に神とキリストの働きが一体であることを示します。「油を注がれた」とは、イエス・キリストが神の使命を果たすただ一人の方として選ばれ、聖別され神の使命の代理者であることを示しています。

 クリスマスは救い主である神ご自身がその救いを実行するためにご自分の使者としてイエス・キリストをこの世に誕生させたことを意味します。神ご自身が罪ある人間を救うことを実行された日なのです。ですから「21/この言葉は今日あなたがたが耳にした時、実現した」とルカは宣言します。クリスマスは神の救いの計画が世に成就したことを示しているのです。

 さて第二に次のフレーズに進みましょう。

ここではこのようなイエス・キリストが神から与えられた使命であるかを語っています。それはクリスマスの意味を再度考える事にもなります。

第一に「貧しい者に福音を告げ知らせること」でした。

 イエス様は実際に病人、障碍者、食べる物のない人、差別と偏見に晒された人々と出会い助けられました。癲癇の持ち、レプラの人、ザアカイのような取税人、体の不自由な人々などたくさんです。

私は説教の準備を病院のベッドで始めました。12階は毎日病気の人々で一杯です。忍耐深く待っています。受付、健康保険の提示、採血待ち合い室、レントゲンの検査室など多くの人々が病に苦しみ悩みながら出入りしています。看護師さん、医療事務の方々が忙しくしております。

ルカ福音書には中風の人、心を病んでいる人、手足が萎えている人などたくさん出てきます。当時は薬や病院施設や医療器具もなく苦しんでいる人々は多かった。私は多くの患者さんが待っている通路を通りながら、イエス様は、私のような貧しい病人を憐れみ心配し、招いておられる声を聞きました。

イエス様は言われました。「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人である。」と。当時病を負った人々は村八分にされ、生きる価値無きものとされました。「貧しい者は幸い也」「義人ではなく罪人を招くためにこの世に来た」と言われました。イエス様は弱くされた人々により沿い、食事をし、奇跡を起こして助けたのです。

イエス様は私たちのような無きに等しい者貧しい者、罪に満ちあふれた者を招いて、愛してくださるのです。   

「心の貧しい者は幸い也」です。私たちは教会という病院におり、キリストの愛と慰めによって癒され、救われる者なのです。クリスマスとは罪人であり、弱い私どもが神のアガペーが「今日成就した」ことを感謝するひなのです。

第二に「18/捕われている人を解放する。」[18/目の見えない人に視力を与える」とあります。

この表現は実際に「逮捕監禁されたりしている人」を意味するでしょう。また寓意的に取り、「心が何かに囚われている人」を解放するとも理解することができます。「目に見えない人に視力を与える」も実際に盲人の人々の目を開けたというようにも理解できます。または「心の目が閉じて見えない人」と理解しても良いでしょう。

伊藤先生夫妻の話は大変感動的でした。「上る」と「登る」の違いには目が開かれました。「上がる」は「上がって行った先にある出来事」に焦点があり、「登る」はそのプロセスに注視すると言われました。自分が半身不随になってつらい体験して、パラリンピックの意味が初めて感動したと言われました。手足が不自由になっても、自分なりに努力するそのプロセスを大事にしたいと言われました。私たちは結果、効率、社会へのインパクトの強さ、人からの評価で、人生の価値を決めます。しかし障害を負う者は、その人生の「プロセス」を大切にしているのです。人はそのプロセスの努力が人生を豊かにするものだと、思わされました。結果が評価される価値基準とは別の(オールタナティブな)価値があるのです。

第三に「18/圧迫されている人を自由にする」とあります。イエス様はまた「圧迫されている人々を自由にしました。

イエス様は当時のユダヤ教から排除されていた人々関わりました。それは「地の民:アムハーレツ」と呼ばれる人々です。社会的に捨てられた人々は「罪人」と呼ばれました。彼らとともに生きたのです。

抑圧や圧迫、差別と人権の問題は現代では70年代以降最も大きなテーマです。「軍事政権による政治的な民主主義の破壊」:ミャンマー支援、佐々木宣教の支援。「クオタ制度の導入」:連盟新理事会、「ジェンダーギャップの解消」:女性牧師・主事の会、「LGBTQs」:連合社会員会、「マイクロアグレッション」「パワーハラスメント」:連盟主催の研修会。「ダイバーシティー&インクルージョン(多用性と包摂性)」:新藤由香さんの職業、東京北教会の教会形成など。「孤食の問題」など。キリスト教会でも広範囲にわたって、変化が進んでいます。これらは優れて福音の宣教の課題なのです。一般の人々からはなかなか見えにくい、陰の部分に置かれている人々へと福音は広がって行ったのです。

イエス・キリストは貧しい馬小屋で生まれ、イエス・キリストは十字架の上で人々にあざけれ、さげすまされました。イエス・キリストは市中引き回しによって見世物とされ、弱さと卑賤さの極みを死にます。

そのようにしてキリスト・イエスは貧しい者の中に立っているのです。そのようにして私たちの罪と同じ姿になり、生き、死んだのです。これを「罪人の為に死んだ」と聖書は言うのです。

私は市民クリスマスの件でカトリック藤沢教会で先週働きました。帰りにお御堂に座り、祈りました。会堂は真っ暗で寒いでした。見上げるとイエスキリストの十字架が下がっていました。私はジッとイエス様の姿を見つめてしまいました。孤独なキリストが空中にぶら下がり、手と足を広げて、静かにぶら下がっていました。暗い会堂の中でイエス様の姿を見ていると自然に涙が流れました。キリストの御苦しみが迫って来ました。キリストは十字架の上で涙を流し、孤独でした。キリストは私の姿と重なりました。キリストは静かに泣いておりました。その時十字架の主が共におられることを実感したのです。病気で無力さを覚える私と共に主がおられることは有難く、もったいない経験でした。私は一人で暗い会堂で感謝の祈りを捧げて静かに雑踏の中を帰りました。20/今日、この聖書の言葉は実現したのである。」この言葉は私にとって真実となりました。

 イエス様の降誕をお祝いするクリスマスの季節を迎えようとしています。わたしたちの心にキリストの誕生の経験をすることがクリスマスを迎えることです。教会を飾ること、教会で楽しくクリスマスを迎えることは最も大切なことです。しかしそれだけではイエス・キリストの誕生が経験できないクリスマスになるのではないでしょうか。わたしたちはもう一度キリストがわたし個人の中で生まれて、イエス様との愛に満ちた出会いをし、貧しい馬小屋のような心にイエス様をお迎えしたいと思います。イエス様私たちの罪に満ちた心にどうぞお入りください。そして御子イエス様と優しく出会う経験をしたいと思います。

 イエス様は穢れに満ちた私たちの罪の中に入って下さり、愛と希望の光で心を満たして下さるのです。私たちはその時本当の救い主を迎え、喜びに溢れるのです。あなたの心にイエス様は生まれようとして、宿を貸して下さいと待っておられるのです。さあ迎え入れましょう。