【思いを秘めて】~城壁の再建~2022年11月6日ネヘミヤ記2章11~20節

【思いを秘めて】~城壁の再建~

202211月6日ネヘミヤ記21120

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1、3:1115 静かな調査

 わたしたちの教会は牧師招聘の為に、牧師館や会堂の改築を行おうとしています。古くなった建物を維持してくためにどんな教会でも改修、改築、増築、牧師館改築や改修を行うのに苦労します。

ネヘミヤはどのように荒れ果てた神殿を改築して再建したのでしょうか。今日はその部分を読んでみましょう。

1,ネヘミヤの調査

 今日の部分はネヘミヤが再建工事を開始する部分です。読んでいきましょう。3つのことを教えてくれます。

1に だれにも知られずに、極秘で調査

を開始します。彼は「12:夜」「13:夜中に」「15:夜の内に」調査しました。人気のない夜に始めます。少人数でバなどを引かずに始めます。また神様がネヘミヤに語ったことを誰にも話しません。計画を心に秘めて静かに開始し

ます。これは彼が祈っていたことの証しです。神様の霊的な交りを深く体験していたのです。「イエス様は人里離

なれたところで祈りました。」「祈る時は戸を閉じて祈りなさい。」と言われた。神との対話があったのです。

第2に崩されたエルサレムの城壁の現状をつぶさに自分の目で確かめたことです。

彼は仲間の人々数人と自分の目と足とを使って自分で実際に調べます。谷の門、竜の泉、王の池、泉の門、「谷に沿って」等を見ました。ネヘミヤは実際に自分で確認し、自分で確かめました。これも信仰生活にとって大事です。自分で調べ自分でしっかり状況を把握することです。

第3に 協力を要請する上で「神の動機づけ」に確信を持ったことです。

 ネヘミヤは「神の語り掛けに確信」を持ちました。「12:神がわたしに示されたこと」とあります。「15:神の御手が恵み深く私を守り、王が私に言ってくれたことを告げる」とあります。  

ネヘミヤは神の言葉を確信し、王の言葉を確信して民に呼びかけるのでした。「20:天にいます神ご自身自ら、わたしたちの工事を成功させてくださる。」彼は神の語り掛けを聞く信仰を持ち、神の語り掛けに慎重に対応する静けさを持っていたのです。内的な確信がありました。彼は確信をもって呼びかけたことができました。自分の欲でもない、自分勝手な「ひらめき」でもない。自分の名誉欲を満たすためでもないことを検証する冷静さがありました。

 

2,反対者たちが起こる

さて今日の個所にはもう一つのテーマが語られています。それは再建に反対する者たちも居たということです。

 聖書を見てみましょう。「1:10ホロニ人サンバラトとアンモン人の僕トビヤは、イスラエルの人々の為になることをしようとする人が遣わされたと聞いて、非常に機嫌を損ねた。」「1:19ところがホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラム人ゲシュムは、それを聞いて私たちをあざ笑い、さげすみ、こう言った。お前たちは何をしようとしているのか。王に反逆しようとしているのか。」と迫ってきます。

 サンバラトはサマリアの地方の州知事です。政治的な支配者でした。トビヤはトビヤ家という名家の出身です。当時の大土地所有者です。ヨルダン川を東に越えた広大なギレアド地方は「トビヤの地」と呼ばれました。ネヘミヤたち45千人以上が、言わば難民として流入してきました。自分たちの既得権権益を犯され、恐怖を与えるものでした。

 サンバラトとトビヤは3章では激しい罵りの言葉を投げつけます。4章では武力で工事に混乱を招きます。6章では、女預言者を買収して脅迫します。また脅迫の手紙を何通も送り、作り話で、工事やめさせようとします。

これらの反対が起こるたびにネヘミヤは神の下で祈り続け、神の助けを求め続けました。「6:11神よ、今こそ私の手を強くしてください。」と祈ります。ネヘミヤは「弱さを体験」し、悲しみの涙の中で祈ったのです。

神の御心を行おうとする時多くの試練が待ち受けていることを示しています。安易な道はありません。神の道は十字架の道、ドロローサであることが示されます。さげすみ、嘲笑、脅迫、偽預言者、暴力による攻撃と脅し、命を狙うもの、同胞たちの失意や意気阻喪しそうな経験、このようなことを経験するのです。

私たちのビジョンや夢はそれほど簡単に手に入ることはないのです。決して平坦な道ではなく、挫折や諦めや意見の違い等との戦いの中から神の御心は立ち上がっていくのです。これらの

試練に謙虚に忍耐深く戦っていく者は主の御心を果たしうるでしょう。信仰的な「意志」が問われるのが信仰生活です。

本日は主の晩餐式を行います。キリスト・イエス様の十字架の体と血とを受ける時です。それは十字架をキリスト共に負うことを意味します。キリストと同じように苦難から逃避せず、神に信頼しつつ、十字架を負うことを意味します。わたしたちは自分に与えられた試練を負い、キリスト共に十字架を負うのです。わたしたちの罪は深く、わたしたちの計画や思いに反対する人々も多いでしょう。しかし私たちは忍耐深く、ネヘミヤのように与えられた教会形成の働きを忍耐深く負うようにと召されているのです。キリストは言われました。「自分の十字架を負って私に従って来なさい。」

神はその一人子を十字架に付けるまでに、私たちを愛しました。神ご自身が御子の犠牲という大きな犠牲・代価を払って愛する方なのです。