『エルサレムへの想い』 2022年10月23日ネヘミヤ記2章1-10

『エルサレムへの想い』

20221023日ネヘミヤ記21-10

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1、破壊された故郷2:1-

 今日からネヘミヤ記に入ります。皆さんにゼルバベル、エズラ、ネヘミヤの概略を表にしましたので、学んでほしいと思います。

ネヘミヤはバビロン捕囚後153年後エルサレムへ帰還します。エズラから13年経っています。随分長い時間が経っています。

ネヘミヤは普通あまり苦しいことを顔に出さない人であったようです。しかしアルタクセルクス王はネヘミヤの顔を見て、2:暗い表情をしているが、どうかしたのか。病気であるまい。」とネヘミヤの苦しみを見抜きます。暗い表情はヘブル語で「ラア」で「花がしおれる」という意味があります。ネヘミヤは「心が折れていた」のです。「3:わたしがどうして暗い表情をせずにおられましょう。先祖の墓のある町が荒廃し、城門は焼かれたままなのです。」と暗い表情の心の内を話します。人生の相談相手がいることは人生を豊かに生きる一つです。

この苦しい胸の内については1:-4に語られています。ネヘミヤの親族がユダの地からやって来て彼らの先祖の地エルサレムについて報告したのです。彼らは「1:3-4/捕囚の生き残りでこの州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。4:これを聞いて私は座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、神に祈りを捧げた。」

戦後生まれの私どもは国が破滅するという経験をしてはいません。しかしそれは空襲を受けて破壊された横浜や東京、平塚の様でした。また原爆で完全に破壊された広島や長崎の様でした。震災で津波に破壊された人々や家々の状況と似ているでしょう。親族たちは死に、国の敗北と破壊、多くの日々との悲惨な姿に深く心を痛めていたのです。ネヘミヤの心の苦しみは今を生きる私どもの痛みでもあります。

1:6/あなたの僕であるイスラエルの人々のために今私は昼も夜も祈り、イスラエルの人々の罪を告白します。」と祈りを捧げます。

この後にネヘミヤの長い悔い改めの祈りが記されます。

1:11おお、わが主よ、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けて下さい。わたしたちは心からあなたの御名を恐れ敬っています。どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人(王)の憐れみを受けることができますように。」と祈りと願いを主に捧げます。

 深い後悔の念、罪深いものであるという自覚を祈りに込めています。深い罪責をもっていたのです。自分たちの罪に目を止め、罪を避けず、罪を告白します。これは教会や信仰生活の土台ではないでしょうか。

2,二つの支えによって

 しかしネヘミヤは2つの支えによってエルサレム再建の道へと導かれて行きます。一つはアルタクセルクセス王の協力です。

エレミヤが「2:5/わたしを先祖の墓のある地に遣わせて下さい」と相談すると、王は「どのくらいの期間が必要か」を聞きます。そして帰国することを許可します。また「2:7/ユダにつくまで私を通過させるように書状を嘆願します。」王はこれを許可します。また「2:8/ 再建のための木材を準備の書状」を願い出ます。王はそれを許可します。王はまたさらに「2:9/王は将校と騎兵をネヘミヤと共に派遣します。」エレミヤに護衛を付けるのです。

これらのことから、ネヘミヤが王から信頼を寄せられていた様子がわかるでしょう。さて今日配布しました表を見て下さい。ゼルバベルもキュロス王に支えられます。余談ですが、ネヘミヤ記の次の書は「エステル記」ですがこのエステル記においても、エステルや叔父のモルデガイに対してアルタセルクス王は大変好意的です。最後の10章は王への敬意で終わっています。神殿再建の働きはこのような王やそれに従う多くの人々の助けの中で進んでいきます。

もう一つは神様の助けと導きです。「1:8/神の御手がわたしを守って下さったので、王は私の願いをかなえて下さった。」と記しています。神の手はキリスト者のみに働くのでありません。信仰者のみに働くのでありません。神は普通の人々を動かしています。

この神の御手の守りという信仰の体験はエズラ・ネヘミヤ記の主題の一つです。2:18/神の御手が恵み深く私を守り、王が私に言ってくれた言葉を彼らに告げると」とあります。エズラ記では「8:18/慈しみ深い神の御手がわたしを助けて下さり」、[8:22/私たちの神を尋ね求める者には恵み溢れるその御手が差し伸べられる」、「8:31/敵の攻撃も神の御手に守られて、まぬかれることができた。」

主は祈り、叫ぶ者の祈りと願いと思いを聞いておられます。助けて下さるのです。聖書の物語は神の手の働きの物語です。現代に生きる私どもも神の御手に信頼することができます。私たちはどんな困難な時にも神に祈り求めることができます。必ず神は私たちを助け導き、慰め励ましてくださる方です。これは無謬です。

悔い改めの思いは、神様の恵みと神様の赦しの体験となり、そこから神様への献身と再建の思いに繋がっています。また都を失った痛みを理解してくれる友人や家族は身近にいます。現代のアルタクセルクス王は身近にいるのです。痛みや悲しみを隠すべきではありません。注意深く誰かに話してみることは大切なことです。

悲しみの悔い改めと罪の赦しの経験は私たちの教会形成や伝道活動においても中心でしょう。教会の働きの根幹は悔い改めと神の赦しの体験の分かち合いではないでしょうか。このような経験が失われた教会は、キリストの十字架の苦しみを分かち合うことのないただのカウンセリングの群れになってしまうのみです。教会はそれだけでは教会になることはないのです。

エルサレム崩壊、神殿破壊の悲しみは神理解に大きな影響を与える出来事でした。哀歌もその一つです。最後の哀歌の31627節【P1290】を朗読します。

「砂利をかませて私を砕き、塵の中に私を打ち倒す。私の魂は平和を失い、幸福を忘れた。私は言う「私の生きる力は絶えた。ただ主を待ち望もう。苦渋と欠乏の中で、貧しくさすらったことを。決して忘れず、覚えているからこそ、私の魂は沈み込んでいても、再び心を励ます、なお待ち望む。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。主こそ私の受ける分と私の魂は言い、私は主を待ち望む。主に望みを置き、尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば幸いを得る。」