【礼拝を整える人々】 2022年10月23日エズラ記8章15~23節

【礼拝を整える人々】

20221023日エズラ記81523

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1、人々共に

 8章1~14節は多くのイスラエルの民の名前が上げられています。13部族、男性のみ、1772名が上げられています。女性や子どもを含めると4000名から5000名がエズラと共にエルサレムに上ります。数としてはゼルバベルの第一陣は42000名ほどでした。合計46000名から47000名の人々がエルサレムへ帰還します。

人々は15000Kの距離を約半年かけて砂漠の中を、日照りや星を目当てに、ラクダと共に徒歩でいくのです。砂漠の寒さに凍える者もあるでしょう。高齢の者や子どもは病に倒れ死ぬかも知れません。迷うこともあろう。争いや病気もありうるでしょう。エズラは4000名の長としてリードを取る責任がありました。

2,レビ人を探す

15節には「レビ人が見つからなかった」とあります。そこにレビ人は参加していなかったようです。1700名の中にレビ人がいなかったようです。なぜレビ人をさがしたのか、それは旅の途中で「礼拝を守り、祭儀を守り、モーセの律法について学ぶ」ためでした。

ご存知のようにレビ人の家系は、礼拝の祭儀を司る重要な責任ある家系です。エズラ達は、18節彼らはイスラエルの子レビの子であるマフリの一族からシェレブヤという有能な人物を、その子らと兄弟18と共に連れて来た。」とあります。エズラ達はリクルートして、レビの家系に属する者を連れて来るのです。

 28節では「あなたがたは主に捧げられた聖なる人々です」と言われています。レビ族には、祭儀を行う使命と律法を教える特別の使命がありました。儀式の用具、儀式の順番、儀式でのモーセ五書の朗読、楽器の使い方、賛美を選ぶ、巻物の聖書の準備、ガウンの着方など多くの働きがありました。

 レビ人達は祭具や金銀の礼拝用道具の運搬も任されています。その量は銀2.2Kg、銀の祭具3400Kg,3400Kg,金杯208.4Kgに及んでいます。「随意の捧げものとして捧げられた金銀の祭具」もありました。大切な祭具を運び、強盗や盗難から守る役目もあったのです。

祭儀と同時に律法を教えるのもレビの家系のしごとでした。教育の使命もあったのです。シナゴーグの原型をこの時代に造ったのはエズラであったと言われています。

また「ギリシャ語版の70人訳旧約聖書」などもこのころから始まり、研究や編纂も進んでいきました。礼拝と教育の使命を再興したのです。これらの奉仕はある意味専門性を必要としました。

旧統一教会解散問題、宗教法人の解散問題が報道されています。人々の疑問に答えていく知恵が必要とされているのではないでしょうか。バプテスト教会は信徒が学ばないと烏合の衆の教会になる危険があります。建物も大切です。同時にどんな礼拝を行い、どんな信仰を育てるのか、それが本質です。「人は城、人は石垣」です。神殿という建物だけではなく、人作りを始めたのです。

3,神の御手が助けて下さり

しかしもう一つの側面を描いています。18節です。「慈しみ深い神の御手がわたしたちを助けて下さり」とあります。

人をリクルートしレビ人を連れてくることができたのは「神の助けの御手」であった。人を建てることができたのは神の深い慈しみであったと告白しています。

この言葉は繰り返しエズラ記で述べられている、大切な主題です。7:28わたしは、わが神なる主の御手の加護によって勇気を得」とエズラはその体験を証ししています。神様の手によって守られたという信仰の実感です。

8:31敵の攻撃も神の御手に守られて、免れることができた。」神の守りを実感したでしょう。7:9神の慈しみ深い加護を受けて・・遂にエルサレムに到着した。」と記録しています。「7:6その神なる主の御手の加護を受けて、求めるものをすべて主から受けていた。」

 主なる神は信頼するものを守り、助け、導き出し、必ず救いの道を備えて下さる。救いの神の御手によって神殿の再建は可能だったのです。人ではなく、「主なる神の御手が」神殿を造っていくのです。

パウロは自分のことを「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神によって使徒とされたパウロ」と呼んでいます。  

彼はイエス・キリストとの直接の出会いでキリスト者として生き始めたのです。キリストとの直接の出会いは自己責任を取れるキリスト者、言葉と行いをキリストに合って語れるキリスト者、忍耐をもって人を育てる肯定的な人格を作ります。そして「豊かに実を結び」成熟するでしょう。

 今日の暗唱聖句は詩篇127:1です。「主ご自身が建てて下さるのでなければ、家を建てる人の労力は、むなしい。」とい言われています。大神殿が建っても人間は罪人であることは変わりません。「むなしいもの」です。

しかし神様との関係に結ばれ、罪を赦され、十字架のキリストの贖いを実感できる信仰者のみが教会の本質を形成できるのではないでしょうか。

4,旅の初めの祈り、

 エズラはエルサレムへの旅へ出る前に祈りをしました。その部分を見て終わります。21:断食を呼びかけ、神の前に身をかかがめて祈った」と記されています。エズラは祈りのリーダーであったことがわかります

 彼は子どもたちのために、また多くの金銀の祭壇用の器具が守られるように祈りました。彼は、献身的な祈りと断食で神を操作するのではなく、神の力と神の知恵と神の助けを神の御心に委ねて、神の御心に自分を投げかけるために断食をするのです。

22:旅の間、敵から守ってもらうために歩兵や騎兵を王に求めることを恥とした。私たちの神を尋ね求める者には、恵溢れる御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが降ります。と王に言っていたからである。」と祈っています。

エズラが求めたのは、歩兵や騎兵から守られる旅ではなく、「神から守られるという体験」「神を直接、体験すること」を望んでいます。「恵み溢れる神の御手の体験」を祈ったのです。

間接的ではないではなく、直接的な神体験です。神の恵みとは何かを直接体験することを祈りました。23節「祈りは聞き入れられた」とあります。彼らは直接、神の臨在に触れたのです。

 

 皆さんはどうでしょうか。神の臨在、神の存在、神との直接的な出会いをしておられるでしょうか。今日も主と共に過ごせたという実感があるでしょうか。モーセ、ヨシュア、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、パウロ、イエスなど神との直接的な出会いの歴史が聖書です。サムエルは「サムエル、サムエル」という神の言葉を聞き、「主よ、お話しください。僕はここにおります。」と応答し、神の直接の言葉を聞きました。神の守りの体験が信仰を豊かにしていくのです。