『贖いと過ぎ越し~神の完成』 2022年10月16日エズラ記6章13~22節

『贖いと過ぎ越し~神の完成』

202210月16日エズラ記6章13~22

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1、神殿の完成

神の神殿は70年間放置されたままでした。城壁は崩れ、至聖所は破壊され、神殿の祭具は壊されていました。もはや礼拝は中止されていました。栄華を極めたソロモンの神殿は兵(つわもの)どもが夢の跡になりました。

 閉鎖した教会も幾つも経験しました。青森教会は伝道所を出し会堂も建てましたが解散しました。2年閉鎖した仙台北教会、横浜教会の閉鎖の仕事もしました。横浜教会はあばら屋になりました。教会は、荒廃し、消滅します。教会を継続できることは主の助けだとつくづく思います。

 6:14を読んでみましょう。

6:14ユダの長老たちは預言者ハガイとイドの子ゼカリアの預言に促されて順調に建築を進めていたが、イスラエルの神の命令と、ペルシャ王キュロス、ダレイオス、アルタクセルクセスの命令によって建築は完成した」と記されています。ここからメッセージを読みとってみましょう。

1,ハガイとゼカリヤの言葉

1つは、「預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言に促されて働きが起こりました。その時の言葉は「ゼカリヤ書」と「ハガイ書の中に記されています。

ハガイは帰って来た民に言いました。「1:4今、お前たちは、この神殿を廃墟のままにしておきながら自分たちは自分の家に住んで良いのか。1:8お前たちは木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると主は言われる。」

帰還した民は、預言者の言葉に従いました。神の言葉として聞き、これに服従したのです。それは彼らにとって「耳に優しい言葉ではありません。大変厳しい非難の言葉のように聞こえました。やっと帰って来たのに、またお金を出し、労力を出し、色々な財産を提供し、時間を割かなきゃいけないのかと思ったのです。自分たちのことで一杯でした。しかし彼らは「いやな預言者の言葉」を神の言葉として受け取りました。

3,キュロス、ダレイオス、アルタクセルクセス王による支援

 もう一つは王たちの手助けがありました。6:14/ペルシャ王キュロス、ダイレイオス王、アルタクセルクセス王の命令によって建築は完成した」とあります。

どのような助けを王たちはしたのでしょうか。6:8/この神殿を建てるために、あなたがたのユダの長老たちにを援助することを私は命ずる。その経費はユーフラテス西方からの税収による国費によって賄われ、滞りなく正確にそれらを彼らに与えよ。」

これはダイレイオス王の支援の言葉です。王は税金をもってイスラエルの民を助けます。ペルシャはゾロアスター教という宗教を信じる国でしたが、イスラエルの民を支援します。

ヤーウェの思いを「異邦人」でも行うのです。三沢におりました時に教育館を建てました。その時にはみんなお金がないと言っていました。でも求道中だったバーのママさんが、多額の献金をしてくださいました。それで会堂の椅子を30脚購入することができました。今でも忘れることができません。建築の計画が始まると色々な方々が賛同して下さるものです。教育館が完成した時は、ケーキ屋のおじさんがエクレアとイチゴケーキを100個くらい焼いて下さって、母教会のカルバリー教会の皆さんも来てくださり楽しい時でした。そのような中から現在の牧師の福田 敦牧師も救われました。福田先生は病院の院長をしながら、東京バプテスト神学校に入り牧師となりました。現在三沢教会の牧師をしています。

4,祭りごとを行う。

さて完成した時に、イスラエルの民は何をしたでしょうか。1522節に書いてあります。三つの祭りを行ったことが書かれています。

 1つは17節~18節に「贖罪の捧げもの」です。2つ目は1921節にある「過ぎ越祭」です。3つ目は22節に「除酵祭」です。3つは常にイスラエルの民が行う重要な祭りです。今でもこの祭りは受け継がれています。

 3つの祭りについては説明の時間がありません。皆さんにお配りしたレジュメの2を見ながらメッセージを聞いてください。これを良く学ぶと聖書の深みに到達します。

今日は「贖罪の捧げもの(罪祭)」を話します。ポイントは何かと言いますと「悔い改め」という事です。神の言葉を無視し、神の言葉を真剣に受け取ることがなかった。預言者たちの言葉を甘く見ていたこと。それでバビロンの捕囚になったことへの懺悔の思いがありました。

9章はエズラによる長い悔い改めの祈りが記されています。「15/6節「わが神よ、御前に恥じ入るあまり、私は顔を上げることができません。わたしたちの罪科は積み重なって身の丈を超え、罪科は大きく天にまで達しています。先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪の中にあります。その罪悪のために、私たちは王も祭司もこの世の王の支配下に置かれ、剣にかけられ、囚われ人となり、略奪され、辱められてきました。今日、ご覧の通りです。ところが今、ほんの少し前から、私たちの神、主の憐れみにより、私たちの幾人かが捕囚をまぬかれて生き残り、あなたの聖なる所に拠り所を得るようにされました。こうして私たちの神は、私たちの目に光を与え、奴隷の身にありながらも、わずかに生きる力を授けてくださいました。まことに私たちは奴隷にされています。しかし私たちの神は私たちを奴隷のまま捨て去ることなく、ペルシアの諸王が私たちに対して行為を抱くようにし、生きる力を与えて下さいました。こうしてユダとエルサレムで私の神の神殿を再建し、廃墟を復興し、城壁を得るようにしてくださいました。」

 人々は深い罪の自覚がありました。自分たちは神の御心に反して生きて来た。深い罪悪の中にあった。それは天に達するほどであった。それゆえ辱められ、略奪されてきた。しかしただただ神の憐れみにより、奴隷の状態から解放された。(アフェーシス)です。ひたすら神の憐れみによる。そう悔い改めを告白します。目の光を与えて下さったと神様を体験した様を告白している。(アカサルテース:清め)のです。この罪責の思いと罪人である自覚、そして神様の一方的な憐れみを経験したことが「神殿再建」の熱意になっているのです。人間の知恵、力、財力ではありません。罪責と悔い改め、神の憐れみが彼らを突き動かしたのです。

 

 イスラエルの民はこの経験を伝えるために神殿を建てるのです。神殿ではこれらの経験を繰り返し思い越し(ヒョポモネーシス)、記念として罪祭、過ぎ越しの祭り、除酵祭を行うのです。