『捕われからの解放』 2022年10月2日エズラ記1:1-11

『捕われからの解放』202210月2日エズラ記1:1-11

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1、第二の出エジプト

 歴代誌下36:21「こうしてエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地は遂に安息を取り戻した。この荒野の全期間を通じて地は安息を得、70年の年月が満ちた。」一世代です。BC567年にキュロス王はイスラエルの民をイスラエルの地へ返す勅令を出します。この勅令が出てから50年後にエズラはエルサレムの地へ帰ります。これも勅令後ほぼ一世代過ぎてからです。神殿の再建が始まる頃には、帰還した第一世代は死んでおり、第二世代、第三世代がエルサレム神殿の再建を行います。神殿の再建はバビロン捕囚から3代目のイスラエルの人々の物語です。わたしたちの教会は来年30年目を迎えますが、次世代の教育の大切さを思わされます。誰がわたしたちの第二神殿時代を築くのでしょうか。

2,神は生きて語りかける

聖書に帰っていきましょう。このバビロン捕囚からの解放者は神の働きかけから開始されます。

1:1/主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアのキュロスの心を動かされた。

1:2/天にいます神、主は地上のすべての国をわたしに賜った。」「1:/主が神殿を建てることを命じられた。」「1:5/神に心を動かされた者はエルサレムに主の神殿を建てるために上っていった。」

 主が、神が働きかける。主が語り掛ける。主が心を動かすのです。主が、神が神殿を建てる。キュロス王の心を動かすのは主です。人々の心を動かすのは神ご自身です。主語は主、神です。主が始まりです。神が言葉を発して語りかけ、心を動かすのです。神は生きて働きます。神様に心を動かされた者たちが主の御用を果たすのです。主は人の心を揺り動かします。

皆さんの心を主が揺り動かしているでしょうか?アモス3:8「主が語られる誰が預言せずにおられようか」とその使命を語りました。ヘブ1:1「主は色々な方法で先祖たちに語られた。」と言っています。

聖書を読まない、霊想しない、人はうまくあつかえると思うと教会は教会の基本を失うのではないでしょうか。神の声、神の言葉を求めましょう。神の語り掛けを聞くことからわたしたちの信仰生活は始まります。聖書を聞く、祈って神の言葉を求める。霊想書を読んで神の言葉を聞いていくことは一番基本です。

3,神は異邦人にも語り掛ける

さて神は異邦人のクロス王にも語り掛けました。1:1主はかつてエレミヤによって約束されたことを成就するために、ペルシアのクロス王の心を動かされた。」「1:2天にいます神、主は地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムにご自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。」とあります。

 神はユダヤ人ではない者を神は選びました。主はユダヤ人だけに語りかけるわけではありません。イザヤ書では、キュロス王のことを次のように語っています。「イザヤ4428/キュロスに向かって、わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者と言う。」「45:1/主が油注がれた人(メシア)キュロスについて、主の望を成就させる者、私は彼(キュロス王)の右の手を固く取る」と言われています。

彼らを助け出し導く出す働きをするのは、もはやイスラエルの国、選ばれた民、選民イスラエルだけでありません。イスラエルの神は異邦人キュロスを用いて、神殿再建の端緒を開くのです。エズラ記を読めばわかりますが、キュロス王は神殿建設のために色々な許可を出して、帰還したイスラエルの人々を助けます。

私はパウロの言葉を思い越します。彼はエペソの人々に向かって語りました。「エフェ2:11以下/あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは割礼のない者と呼ばれていました。その頃はキリストと関りがなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約に関係がなく、この世の中では希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」

  神は私たちに直接、生き生きと語り掛けて、異邦人であってもキュロス王のように用いられていくのです。ユダヤ人であるかどうかを超えて、主はわたしたち異邦人にも語り掛けるのです。あなたは言葉を聞いていますか。あなたは神の言葉を日々生き生きと受けているでしょうか。クリスチャンだけに語りけるのでありません。キリストを知らない人々にも主は語り掛けます。

4,随意の捧げものと祭儀類

 1:510節は様々なものを携えて出て行ったことが書かれています。「随意の捧げもの」「金と銀の器、家財、家畜、高価な贈り物」を持っていきました。「1:7では祭具類」「1:9金の容器30、銀容器一千、小刀29、金杯30、二級品の銀杯410、その他の祭具1千、以上金銀の祭具の合計は5千4百」でした。これらはすべて神殿で使用される祭具です。そこで礼拝をするために祭儀の道具をもっていきます。なぜ祭具をもっていったのでしょうか。それには理由があります。北イスラエル王国が滅んだアッシリア捕囚、南王国が滅んだバビロン捕囚で失ったものが3つあります。

1つは「契約の箱」です。乳と蜜の流れるヨルダンの地に入る際には、担いで入りました。これには十戒の石板と7ツ枝のメノラー(燭台)が入っていましたが、どこにいったか分からなくなります。

2つ目は北イスラエルを形成した10部族」です。ユダ・ベニアミン・レビ以外の10部族は行方知らずの滅亡の民となり、アッシリア捕囚後は姿を消してしまいます。アッシリアに捕囚となった10部族がイスラエルに帰って来たと言う報告がありません。イスラエル史では失われた10部族と言われています。

3つ目はエポデです。これは大祭司や祭司が神殿祭儀を行う際の宝石や7色の糸で編まれた豪華な祭服です。祭服として大切にされたものですが、捕囚の際の戦乱で行方不明となります。70年間ほどエルサレム神殿は荒れて放置されてしまいます。

 

 彼らは神殿を建てるばかりではなく、礼拝の祭儀をもう一度取り戻したかったのです。礼拝の祭具、礼拝の式順、礼拝の細かい細部の既定はレビなどに記載されています。彼らは礼拝の持ち方についても、神体験をすることを深く願ったのです。祭具は神を経験する神聖な者であり、大切にされたのです。旧約聖書はレビなどがそうですが、厳しい祭儀規定や祭儀用の道具について本当に細かく指定をしています。それは礼拝を大事にする姿の現れです。彼らは礼拝の式文、会堂の建築、礼拝の祭具に至るまで、細かく心を込めているのです。第二神殿は建築だけではなく、礼拝の質を求めているのです。時代は変わっても私たちの教会も主に最善の設備を捧げていくことの大切さを教えているように思います。