『目覚めた者』 2022年9月25日ダニエル書9章1~19節

『目覚めた者』

2022年9月2 5日ダニエル書9章119

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1,終末を語る

 先週も話しました。ダニエル書は4つのイスラエル敗北の経験に基づいて描かれています。1つ目はBC722に北イスラエルがアッシリア帝国に壊滅させられた戦争。2つ目はBC587に南王国ユダがバビロン帝国によって破壊されたバビロン捕囚の戦争。3つ目はBC301にエジプトの王プトレマイオウスがエルサレムに侵入してエルサレムを破壊した戦争。4つ目はBC167にシリア帝国のアンティコス4世エピファネスがエルサレム神殿を破壊しマカベヤ戦争が起こった戦乱です。

 イスラエルの民は絶えず敗北し、自らの神殿は破壊され、祭具は運び出され、ユダヤの民は殺害されました。信じている神ヤハウェは常に敗北の神として軽蔑され続けたのです。ヤハウェの勝利と言える期間はほとんどありません。自分たちの独立国家を作ることもできないままです。いわば「ヤハウェは連続敗北者の神」でした。

  イスラエルの人々は「敗北の連続」を終末として考えるようになりました。アッシリア、エジプト、バビロン、エジプトなどによるエルサレム破壊を「歴史の終わり」「終末の時」と理解したのです。

それはあたかも新約聖書の黙示録が「ローマによる迫害とキリスト教徒大迫害」を終末として理解したことと重なるのです。

2,終わりの時

 さて12章には「終わりの時」と言う言葉が出てきます。「12:1かつてなかったほどの苦難」「12:4ダニエルよ、終わりの時まで」「12:12終わりの時までこれらのことは秘められ」「12:13終わりの時まで」と4回出てきます。これらはいずれも南の王国と北の王国の戦乱によるエルサレム破壊を示します。しかしそれまた「歴史の終わりの終末」を示しています。つまりイスラエルが排除され、迫害され、聖所や神殿やシナゴーグさえも破壊される時を意味しています。その時イスラエル民は絶望と混乱と破滅の予感の中で生きねばならないのです。

3,絶望の中の救い

 このような絶望の中でどんなことが起こるのかを12章は示します。

 「12:1 その時大天使ミカエルが立つ」とあります。「終わりの時が来る時に神の助け手である天使」が到来します。救いの絶望の中にキリストが到来することに似ています。

12:1その時には救われるであろう」と宣言します。それは「あの書(命の書)に名を記された人々が救われていくのです。その人々は「眠りから覚めた者、目覚めた人々」であると言われます。そのような人は「永遠の命に入り、大空の光のように輝き、とこしえの星と輝く」とあります。

 神殿は破壊され、異教の神々が勝利するように見える世界の中で「神の救いを信頼し、神の救いの希望を持ち続ける信仰者の喜びが記されるのです。

神はまさに「永遠の命、永遠の希望」をこの世の一切の破壊があっても心に抱き続けることが出来ます。

4,神の宣言

 この様な宣言をするのは一体誰でしょうか。それは神ご自身です。それは12:7に示されます。「永遠に生きる方によってこう誓うのを聞いた」とあります。まさに「永遠に生きる方とは戦争の勝利を超えた勝利者ヤーウェ自身」を指します。

 このヤーウェの姿は10;5~6(P1398)にも記されています。「10:

目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締め立っていた。体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明ようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す言葉は大群衆のようであった」とあります。これはまさにヤーウェ自身を黙示文学的な表現を使って現わしているものです。

 ヤーウェなる神の力、威厳、権威、聖なる性格を示したものです。

 神はこの世の権力を超えてなお、わたしたちに希望と永遠の命を与えて下さる方であることを示します。神はこの世の繁栄する帝国が絶えず滅びゆき、人間の作った帝国以上の神の国を啓示する方なのです。このような帝国の王たちをも絶対化することはありません。12:11ではこのような帝国の王たちを「憎むべき荒廃をもたらす者」と呼んでいるのです。神に敵対する者であり、神の絶対性を越えようとすることは不可能であることを聖書は示すのです。

 エリザベス女王の葬儀をご覧になったでしょう。エリザベス女王も神の前には絶対的ではないことを葬儀は示します。チャールズも、メーガン妃も、アン王女も、それは死すべき存在であり、人間の王としては君臨できますが、神の領域へと侵入することは出来ません。王が「エピファネス」つまり

「現人神」として存在することは許されないことを聖書は啓示するのです。

5,「お前の道を行け」

 「10:56節:一人の麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っている者、体は宝石のようで、顔は稲妻のようで、目は松明のように燃え盛り、腕と足は磨かれた青銅のようである者、話し言葉は大群衆のように大声である方」がわたしたちに語り掛けています。

 

それは「12:13:終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時が終わるにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう」と最後の言葉をダニエルに語ります。

 終末の時まで、戦乱が起こり、世情が不安定であり、困難が続き、苦難が続くともあなたは「あなたの道を進みなさい。」神の御心を求めつつ他人のようにではなく、あなたの与えられた神の使命に生きていき、自分の道を行きなさい。そして永遠の神の国入り、天の御国に入りなさい。「終末が到来する時にも」「お前に定められている運命に従っていきなさい」あなたにはあなたにしかできない特別の定めて運命があります。それはあなた固有のものであり、なた独特のものです。この神からの定めと運命を人々は様々に批判し、評価するでしょうし、良からぬうわさをもたてるでしょう。しかしあなたにはあなた独特の才能、運命、定めされた使命があるのです。その使命を感じ取って自分の独特の使命を生きるようにせよと語るのです。

 お前は立ち上がるとは、神が与えるあなた自身の運命と独自の働きに立ち上がる時、あなた自身は「神の前に立ち上がる」のです。わたしたちは神の前に一人一人が男女を超えて、貧しい富んでいるを超えて、若い高齢であるを超えて、子である親である関係を超えて、才能のあるなしを超えて、学歴や経験を超えて、神の前に立ち上がることが出来るのです。それは神の前の完全な自由の世界が開かれていることを意味します。

 教会は互いがこのような神の前の自由に生きることが出来るように奉仕するものなのです。

私どもは常に「終末の自由の前」に立っています。終末はキリスト者に自由と正義と愛を形成させる最も深い喜びの時です。教会はこの自由の前で共に生きる群れなのです。