『憐れみと赦しの神 』 2022年9月18日ダニエル書9章1~19節

憐れみと赦しの神

2022年9月18日ダニエル書9章1~19節

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1,5つの戦争

 このダニエル書が完成したのはバビロン捕囚後400年後です。ダニエル書を書いた編集者たちは4つの大きな戦争を知っていました。

①1つはBC722の北イスラエルのアッシリア捕囚です。北イスラエルは消滅します。②2つ目はBC587の南王国ユダがバビロン帝国によって滅ぼされたバビロン捕囚です。③3つ目はBC336年のケドニアのアレキサンダー大王のユダヤ地方の支配。ヘレニズム文化がエルサレム神殿を覆いつくしました。④4つ目はBC301年のプトレマイオイ王のエジプト帝国によるエルサレム侵入と破壊です。⑤5つ目はBC167のシリア帝国の王アンティオコスエピファネス4世はエルサレム神殿を破壊し異教の神々の像を神殿に置きました。これに反対してユダヤ人は闘争を繰り広げ、マカベヤ戦争が起こりました。

2、荒廃の地、ユダ王国と神殿

「9:2:エルサレムの荒廃の時」「9:17荒廃した聖所に」「9:18わたしたちの荒廃とみ名をもって呼ばれる荒廃とをご覧ください。」「9:26荒廃は避けられない。」「定められた破滅が荒廃の上に注がれる」これらは都エルサレムの荒廃やイスラエルの国全体が5回の戦争によって荒れ果てた姿を含んでいるのです。北イスラエル王国と南王国ユダは台風の中の笹船のように喘ぎながら神を求めるのです。

現代の私たちで言えば「荒廃」とは長崎、広島の原爆によって荒野のように壊滅した町の中で、平和を祈っているのと同じ景色が見えます。

2,ダニエルの祈り

ダニエルは「悔い改めの祈り」を捧げます。それが今日の個所です。

「5:罪を犯し、悪行を重ね、背き逆らってきた」「6:預言者たちの語ったことに聞き従わなかった」「8:あなたに罪を犯した」「9:わたしたちは神に背きました」「10:主なるあなたの声に聞きませんでした」「11:あなたの律法を無視し、御声に耳を傾けませんでした」「13:あなたのまことに目覚めることをしませんでした」

「罪」「悪行」「背き」「神の声、律法、御声に不従順であった」「神の言葉に目覚めなかった」「預言者の言葉を無視した」と自分の罪を告白する言葉が延々と続きます。

聖書教育は「悔い改め」とは、「やみくもに自分を卑下することではない、自暴自棄になることでもない。何よりも自分を正しく認識することである。

自分の現在地を正しく認識することです。自分がこれまでどのような歩みをたどってきたか、どのような経緯でこのような混乱と敗北と罪の中にいるのか、振り返ることです。この歩みを振り返り、偽りやごまかしのない眼差しで見つめ、自分たちの歴史を正しく知り、今自分が立っている現在地を見て行こうとすることです」と書いています。

自分の立ち位置を「罪をごまかさずに見つめること」を求めています。

バビロン捕囚となった原因をバビロンのせいにしたのでありません。彼らは自分の信仰の課題、罪の問題として受け取りました。自分の罪をまっすぐに見つめています。罪から目をそらすことはありません。

 5つの戦争を記憶しながらダニエルは「自分たち罪の告白」を行っています。「神の言葉」は十戒に集約されていると言っても過言でありません。「背き逆らってきた」「イザヤ・エレミヤ・

現代の戦争はドローンやコンピューターを使った何千キロも離れた遠隔操作の戦争となり悲惨な死を体験できない戦争になりました。また人間関係もSNSを通しての関係となり、直接向き合うことがない関係になりました。人間の罪やめんどうくささは見ない関係が広がっているように見えます。

人の命や痛みを見ない、感じない、無視する、憐れみなど不要な信仰になっていないか問われているように思うのです。

3,罪の告白の祈り

ダニエルの罪告白は神への嘆願に代わっていきます。

 ダニエルは「主よ」と何度も呼びかけます。「4:主よ、おそるべき偉大な神よ」「15:わたしたちの神である主よ」「16主よ、常に変わらぬ恵みの御業をもって」「17:わたしたちの神よ、僕の祈りと嘆願に耳を傾けて」「18:神よ、耳を傾けてください」「19:主よ、聞いてください。主よ、おゆるし下さい。主よ、耳を傾けてお計らいください。私の神よ、ご自身の為に、救いを遅らせないでください。」

 ダニエルは心からの願い、思いで呼びかけています。どうでもいいことにしたくない罪の告白です。切なる祈りを込めます。神様、神様、神様と切迫した思いで神を求めます。心から、強く、ねんごろに、必死に、心から強く罪の告白をしています。あなたの祈りはどうでしょうか?

4,嘆願の祈りへと進む

ダニエルは罪の告白から神への嘆願の祈りへと深くなり変化します。この嘆願を聞くことでダニエル書の本質、ひいては聖書の「本当の嘆願」「本当に願っている祈り」が分るのでしょう。

「16:聖なる山エルサレムからあなたの怒りと憤りを翻してください」「17:僕の祈りと嘆願に耳を傾け、荒廃した聖所に、主ご自身の為に御顔の光を輝かせてください」「18:主よ、耳を傾けてください」「19:主よ、お聞きください。主よ、お赦し下さい。主よ、耳を傾けて、お計らいください。」「20:こうしてなお訴えて祈り、わたし自身と私の民のイスラエルの罪を告白し、私の神に聖なる山について、主なる私の神に嘆願し続けた。」 

ダニエルは荒廃を神の怒りと受け止めています。神は罪を憎む方であり、罪への神の怒りは、神の愛であると言う深い理解に至っています。神の怒りに本当の神の情熱・ヘッセドが秘められていることに気付いています。神の怒りを神の憎しみと理解せず、神の愛と理解する信頼関係があります。

さらにここから祈りは一層深くなっています。3つの言葉に注意したいと思います。「17:主ご自身の為に御顔の光を輝かせる」「18:わたしたちが正しいからではなくあなたの深い憐れみのゆえに」「19:ご自身のために、救いをおくらせないでください。」

神ご自身が神の憐れみ、神の御顔の光をご自分のために(人間の罪のためではなく)思い起こすように祈っています。イスラエルの民が信仰を取り戻して立派になる為だけでありません。悔い改めの最終目的は「神ご自身が再び回復されるため」です。自分たちが神の名を汚した。その自分たちが回復されるだけではない。汚した神をもう一度正しく、憐れみ深く、義なる神として回復する、いわば神をもう一度神の座へと回復することが最終目的なのです。神が神となることを祈っています。自分の罪を神の憐れみで赦して頂くだけであれば、まだ自己中心(エゴセントリック)です。神を神として立てること、この神の律法を建てることが悔い改めの中心なのです。

「9:9憐れみと赦しは主である神のもの」が暗唱聖句です。人は原罪を赦せません。その意味では人の赦しには絶望すべきです。根源的な罪の赦しは神からしか来ません。