平和を実現する者は幸い 2022年8月14日マタイ5章9節

平和を実現する者は幸い

2022814日マタイ59

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1,平和を覚える時

 19451月最高戦争指導会議本土決戦決定、3月東京大空襲、沖縄戦が開始、4月戦艦大和は撃沈、5月首里本営が壊滅、5月ヒットラー自殺、623日牛島司令官が自決、7月ポツダム宣言発表、86日広島原爆、87日ソ連参戦、89日長崎原爆、10日御前会議、15日玉音放送、15日満州国は消滅し皇帝溥儀はシベリア抑留、30日マッカーサー厚木基地、92日ミズーリ号降伏文書調印、9日中国南京で降伏文書、11日戦犯として29名逮捕、東条首相自殺失敗、27日マッカーサーと天皇が会見、102GHQ設置しました。

 この藤沢の地でも市内キリス教連絡会で18年に渡って超教派の「平和のための合同祈祷会」を継続して参りました。ホーリネス教団鵠沼協会の牧師上中栄牧師・上中悦子牧師は教団の弾圧や殉教した方々についてその苦難を教えて下さいました。投獄と殉教者を出した教派として、バプテトにはないすさまじい歴史を継承している人々の群れです。ナザレン教会の関谷牧師は平和祈祷会に積極的に参加して下さいました。先生夫妻には障害を負った息子さんがおられます。ナチスの障碍者安楽死の問題と結んで、命と人権のことを思わされます。満山リベカ牧師が今回は継承して下さり心から感謝をしております。

2,平和を造りだすもの

第一に平和は静かにしていて安心している状態の意味もあります。人は誰でも平和であることを望みます。平和であることは心地よいことであり、安心できるものです。平和集会の帰りにエレベーターに乗ろうとしましたら、3歳の子供さんが乳母車に乗ってお母さんと一緒に入ってきました。お母さんはもう一人1歳くらいの子どもさんを抱きかかえておりました。その子供さんも眠っていました。大変そうでしたがとても平和な感じもしました。戦争がなく、平和な世界で子どもたちがスヤスヤ眠れることは平和の有難さを思います。平和であることは感謝なことです。

イエス様の運動は「まさしく平和を求める働き」でした。「5:10;平和を実現する人は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」とあります。

しかしここで大切なことは、「平和を実現する人」と言われます

 ここで「平和を実現する」という事のついて考えてみたいと思います。

この箇所はルカ福音書にもマルコ福音書にも並行記事は見ることが出来ません。ですからマタイの独自の資料であろうと言われています。この資料はイスラエルの北方シリア地方で採取された資料です。この地域は歴史的に絶えず戦乱や武力紛争が繰り返され、年の破壊や神殿の破壊が行われた戦乱の地でした。この地域で広まったイエス運動の言葉をマタイはその福音書の中に取り入れたのです。マタイと言う個人ではなく、マタイと言う人も所属する共同体の作品がマタイ福音書なので、この福音書はマタイの共同体の組織、教会の告白なのです。

ここでは「平和を楽しむ人」「平和な生活を気楽に楽しむ人」でもありません。「平和を実現する人」です。

平和を造りだし、積極的に行動していく人です。平和は誰でもほしいもの、誰でも平和を望んでいます。しかし「平和を実現しよう」とすると、色々な矛盾や現実に出会うでしょう。改革し、変えていくこと自体が問題になります。

ウクライナやミャンマーの情報は平和が遠いことを良く知っています。しかしそこに平和をもたらすために「平和を造りだすこと、平和を実現する」ことは容易なことでありません。   

私たちは平和を造りだすために小さな活動を継続する以外に出来ません。イエス様の時代には、ユダヤ教には色々な平和運動がありました。ローマ帝国に協調・協和するサンヘドリンの人々がいました。彼らはローマ帝国に反対せず「ローマの平和」に組み込まれることこそ平和と考えました。

 サンヘドリンの平和主義に反対する過激な平和主義いました。武力闘争を行い暗殺や要人殺害を繰り返す中で平和を求めました。彼らはゼロテと呼ばれました。ローマ帝国の支配を排除し、政治的権力を握り、ユダヤ教的軍事政府を建て上げ平和をもたらそうとするユダヤ教徒でした。

一方政治や世のことに関わることなく、この世の世情に関わることなく、荒野に出て、禁欲的な生活をおくり、心の平和を求めるユダヤ教ともおりました。平和とは世の力や権力や金銭から離れ、心の平和を獲得するものだと考えました。エッセネ派の人々です。

 さてイエス様の伝道はどんなものであったかと語ってみましょう。

 第一に世から逃走し、世から離れようとは考えていません。むしろ貧しい人々、生きるすべのない人、社会の底辺で神殿にもいかない非宗教人=地の民と出会っていきます。そこで神の福音を語りました。その救いようのない困窮者の中で「貧しきものは幸い」と語りました。生活の中での平和運動でした。

第二に武器をとることはない平和運動でした。武器を取った弟子ユダに「剣を鞘に納めなさい」と言うことばに象徴されます。武力でサンヘドリンや時代の宗教者に敵対することは無かったのです。

 第三に当時のユダヤ教支配階級やサンヘドリンのファリサイ派やサドカイ派の人々には非常に厳しい批判を行いました。それはマタイ15章を読めば実によくわかります。「白く塗りたる墓」という批判はその象徴の言葉です。その時代を支配していた「当然の考え方」を批判するのは大変なことです。

 第四に十字架の死に至るまで主に忠実でした。イエスの平和への戦いは十字架への結末へ導くものでした。死を架けて平和と献身していった姿を示しています。平和のために「死に至るまで従順」の姿で生き抜いたのです。

 市内キリスト教連絡会の「平和のための合同祈祷会」で満山リベカ牧師は平和はヘブル語で「シャロームです。シャロームとは動的な言葉です。平和を作り出すと言う行動的な言葉です。それは神の創造行為と関係しています。」と語られました。神のご自身の創造はまさに「平和」の創造なのです。

今日の聖書は「平和を造りだす者は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれるであろう」とあります。まさに、イエス様は「神の子」とよばれました。「神の子と呼ばれる」は「未来形の受動態」です。「平和を造りだす者は、神によって神の子と必ずそうよばれるであろう」と言う意味です。神の契約と確実の中で生きると言われるのです。

 あなたも、わたしも神の平和の契約と確実性の中で生きる者となるように」召されているのです。