「ふるい人を脱ぎ、新しい人を着る」2022/07/24

【古い衣を脱ぐ】

 神様はイスラエルに絹の衣を着せ、青銅の腕輪をはめ、耳飾りや冠を被らせ、美しい女王のように飾らせて下さいました。しかしこの衣を泥で汚し、飾りをちぎり、神様の恩を忘れ、裏切りました。神様は本当にがっかりした、悲しかったのです。神様の愛をだいなしにしました。

 パウロは「17:そこでわたしは主によって強く勧めます。」と始めます。エフェソの人々に、心して聞いて欲しいのです。パウロの強い願いです。

 

 第一に17節~19節の部分です。

「17:愚かな考えに従って歩むな。」「18:知性が暗くなっており」「18:無知と心のかたくなさのために」「19:神の命から遠く離れている。」「19:無感覚になって放縦な生活をしている。」「19:放縦な生活をするな。」「19:あらゆるふしだらな行いにふけって留まるところがない。」と強く勧めています。「愚かな考え」とは「空虚な」です。

 

心に深い虚しさを抱え、埋まることは無く悲しい。親にも家族にも会社にも失望して空しい。「知性」とは「共感応力」です。人の思いを思い図ることができない。自分中心で頑固。冷酷。人を無視して避ける。「無知」とは「知識を軽蔑する態度」です。教えてくれる人に絶えず反発と嫉妬心を燃やす。謙虚を知らない。感情にブレーキが利かず怒りまくる。「無感覚」は「無反応」の意味があります。感情が無感覚、無感情、無表情、無感動である。人に感情や興味を示さない。

 

第二に聖書は「20:しかし」と話の方向を逆転します。20~21節を読んでみましょう。

 

「20:このようにキリストに学んだのではない。」

「21:キリストに聞き」

「21:キリストに結ばれ」

「21:キリストから教えられ」

「21:真理がキリストにあるように学んだ」と言います。

 あなたがたはキリストに学び、キリストに聞いており、キリストに教えられ、キリストの真理をまなんだではないか。無知で冷酷な人間になるようにキリストから学んだのではない。キリストに聞く。キリストに結ばれる。キリストに教えられる。真理はキリスト

であることを学ぶ。聖書は「キリストに学ぼう」「キリストに聞こう」「キリストに結ばれよう」、「キリストに教えてもらおう」「キリストの真理を受け取ろう」とパウロは強く勧めます。堕罪から、根源的な腐敗した罪から、根源的な空虚から、救いようのない冷酷さから、隣人への感情を失った無慈悲、無感覚から、キリストは救い出す。この信仰に立とうと呼びかけるのです。

 

 そして第三に「だから」と新しい生き方を示します。22~23節です。さらに新しい展開を示します。「22:滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨てなさい。」「23:心の底から新たにされて」「24:神にかたどって造られた新しい人を身に着け」「24:真理に基づいた正しく清い生活をおくるようにしなければない。」と強く勧めます。

 「古い人は脱ぎ捨てなさい」です。1脱ぐだけではなく「捨て去る」。また| 2着ようと思って取っておくな。捨てさる。古着はゴミに出す。そして「心の底から新たにされる」。表面だけではない。表だけ変えない。心の深みから脱ぎ捨てる。原文は「心の霊を入れ替え」となっています。心の中にある古い罪は注ぎだして捨てる。聖なる霊を心に入れることです。

 さらに「神かたどった新しい人」つまり「イエス・キリスト」を身に着けるのです。着替えて、別の「新品」のキリストを着る。古いのを新しいのに取り換える。古いのは廃棄処分にして、新しいものに取り換える。今までとは違う「新品」を着る。イエス・キリストは今までとは違う「新品」なのです。エゼキエル書では「新しい霊を授ける」(11:19)となっています。パウロは「新しい命に生きる

」(ロマ6:4)と言います。今までとは違うもの、違った衣、新しいものを着るのです。

  第四に、さてそれでは一体「キリストを着る」とは一体どういう意味でしょうか。キリストとはどんな方なの

でしょうか。それは5:2にあります。「キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りの良い供え物、つまりいけに

えとしてわたしたちのために神に捧げて下さった」という箇所です。

 キリストは神への供え物となった。キリストは「いけにえ」となった。これを着るのです。キリストは犠牲の山

羊、牛、羊となった。キリストは人の罪を贖うために、代理の死を遂げた。罪なき方イエス・キリストは罪人のた

めの「捧げ物」「犠牲」となった。この生き方を着るのです。 会社人間は犠牲には、見返りを求めます。賃金の保障を求めます。会社の犠牲になるから「金(見合う賃金)」を払え。戦争で犠牲になった軍人は「軍神として祭られ」「栄誉(勲章や地位)」を与えられます。だから靖国神社があります。「誉が亡ければ」犬死です。

 

しかしキリストの死、十字架の死は賃金の裏打ち、勲章や神格化のない犠牲、無償の愛でした。まったく栄誉を得ていません。この保証や栄誉のなき愛をキリストはわたしたちの罪のために払って下さったのです。この様な生き方を身に着けるのです。それがアガペー愛です。「贖いの供え物」という言葉は英語で「グッド・スメリング・アロマ」と訳してありました。「良い香りがするアロマ」です。ロクシタンとように美しい香りなのだと言うのです。3:14「あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」と告白しています。苦難は栄光なのです。苦難は良い香りなのです。苦労はグッド・スメリング・アロマです。

 

 祈り:イエス様、あなたに学ばせてくだい。イエス様あなたの言葉を聞かせてください。イエス様あなたと一つに結ばれるようにしてください。あなたの真理を学ばせてください。わたしたちは、古い自分を脱ぎ捨て、あなたの「香りよき捧げもの」となります。「十字架の贖い」は「香りよきささげもの」です。「スウィート・スメリング・アロマ」、その香りを放てるように、私たちを導いて下さい。会社で、家庭で、行く先々であなたの良き香りが放てますように導いて下さい。あなたのアロマを放たせてください。古い者は脱ぎ去り、聖霊を注いで、あなたの香りを注いでください。苦難の主イエス・キリストの名で祈ります。