新しい人を着る 2022年6月12日コロサイ3:5-7

新しい人を着る

2022年6月12日コロサイ3:57

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1、        捨て去りなさい。

3:5みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、貪欲(5つ)を捨てなさい。」「3:8、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉(5つ)を捨て去りなさい。」と命じています。また「3:9 古い人をその行いと共に脱ぎ棄てて」と3回、わたしたちに命じています。

この「捨てなさい」は「ネクロス」という言葉です。「死なせなさい。死に至らしめなさい。殺しなさい」そこから「関係を断ちなさい。活動力のないものにしなさい」という大変きっぱりした強い言い方です。それはみだらな行いなどは決して命を結ぶことはないからです。これらの行いや言動は暗闇、罪の世界へひきづりこむ言葉だからです。例えば怒りは分裂、闘争、分断、破壊、訣別、対立へと導いていきます。争いに火を注ぎます。

宇宙飛行士の野口聡一さんが言っていました。宇宙ステーションを離れての船外活動は真っ暗闇の中での仕事だそうです。船外にでると星が見ないそうです。自分の周りは真っ暗で恐怖を覚える、自分がどこにいるのかわからなくなるそうです。闇は恐怖に導きます。周りは真っ暗は大変恐ろしいそうです。ただ地球だけが明るくかがいて見えるそうです。命ある地球が救いに見える。罪の世界は暗闇で、命が有りません。ただキリストの命だけが闇に輝く地球のように、我々を救うのです。「怒り、悪意、憤り、そしり」は闇と死を生み出すのです。聖書はそれらを捨てよと命じます。これを捨てることによって命は与えられます。

人の罪を繰り返し述べています。「舌は不義の世界です。・・・移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。舌を制御できる人はいません。舌は疲れを知らない悪で死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で神のかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。」(ヤコブ3以下)。

2,新しい人を身に付けなさい。

  さて「捨てた」あと、「脱ぎ捨てた後」に「何を着るかを」聖書は語ります。

3:10造り主に似た新しい人を身付けなさい。日々新たにされて、真の知識に達するのです。3:11キリストがすべてであり、すべての内におられるのです。」と語ります。

「造り主に似た新しい人」とは「イエス・キリスト」のことです。「怒り、そしり、悪しき心、欲望、貪欲、不従順、怒り、憤り、悪意」を脱ぎ去って、キリストを着る、身に着けるように語ります。

言葉を変えて、「3:13、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、互いに忍び合い、責めるべきことがあれば、赦しあいなさい。」と語ります。むしろこれらの喜びを着るように勧めるのです。

なぜでしょうか?「主があなたがたを赦して下さったように。」と続けています。キリストがわたしたちを赦して下さったようにと勧めます。キリストはわたしたちの罪を赦して下さった。わたしたちはキリストの贖いによって罪が赦されている。この実感が信仰や生きる根底です。私にとってキリスト体験は決定的でした。

イエス・キリストは十字架の死に至るまで、殺害の死に至るまでへりくださり、十字架の上で殺されるまで神に服従され、謙遜になられました。この十字架の死の生き方を身に着けるようにと命じているのです。

殺されるまでの謙遜は人によっては愚かなことだという人もいるでしょう。そこまで謙遜に生きることない。人はいつも傲慢だ。私はいつも我慢させられて生きてきた。子供に我慢し、家族に我慢し、言いたいことも言えず、泣きごとも言わず、会社でも、家でも、教会でもやって来た。これ以上黙って耐えろというのか、実に不愉快極まりない。信仰なんてもう十分だ。キリストの生き方なんて出来るわけがない。そう思う方もあるでしょう。

35つの寛容を着る

さて聖書はさらに5つのものを身

に着けるように勧めます。「3;12あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている(この罪ある身が一方的な神の愛で選ばれている!)のですから、憐れみの心(スプランクナ:断腸の思い)、慈愛(オイクティムロス:情け深い心)、謙遜(クレーストテタータ:好意的で情け深い心)、柔和(タペイノーフラスメン:上から目線ではなく低くした心)、寛容(プラウテータ:柔和な優しい心精神)を身に付けなさい。」と勧めています。「3:13互いに忍び合い、責めるべきところがあっても、赦しあいなさい。」と語ります。

  これらもまたキリストの十字架の道を、十字架の愛を示すものです。これは理想でしょうか。出来ない要求でしょうか。

キリストの愛を思い起こしましょう。このような罪人のためにキリストは低くなられ、私たちの「原罪」という罪の代価を払われたことを思い返しなさいと言うのです。これはキリストの言葉です。私自身、あなた自身が応答すべき言葉なのです。牧師に言われて説教されたからでもなく、人が言うからでもなく、できてないくせに誰がやるかと反抗するべき言葉でもありません。共に神の前に立つものとして神の言葉に応答するのです。それが聖書を共に読むという事です。

4,キリストの赦し

 聖書はこのような優しさは繰り返し学び続けていくものでしょう。3:16キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩篇と賛歌と霊的な歌によって感謝して神をほめたたえなさい。そして何を話すにせよ、行うにせよ、すべて主の名によって行い、イエスによって父である神に感謝しなさい。」

 「あなたがのうちに神の言葉が宿るようにしなさい。」と言います。聖書を読む、覚える、祈る、心に沁み込む、聖霊が体に宿る、キリストの十字架が心に立てられることは日々、繰り返し行うべきことでしょう。

神の言葉がしっかり内住するように聖書を学び、読み、祈るのです。今の信仰を超えた自由な境地に達します。悟りの境地に達することが出来るのです。それによって教えることも、諭すことも、賛美することも出来る自由な喜びが与えられるのです。み言葉の内住、聖霊の内住のない賛美は、自己中心の賛美です。

 人は神の名を語って、自分があらゆることを支配したいと考えます。それがうまくいかないとイラつき、怒り、不満に思い、他者を貶め、攻撃し、見下して自分を高い位置に置こうとします。怒って我慢ができない人間は、他者をひきずり落とすため、何でもするでしょう。現実の世界を見ていればそれもわかります。

 

 しかし聖書は「成熟した信仰的生き方」を求めます。信仰は日々の祈りと成熟したキリストとの厳しい対話によって成長していくものです。キリスト者はキリストに出会う時間を十分にとり、人格神である、イエス・キリストに出会いつつ今週も生活したいと思います。