今や明らかにされた 2022年6月12日コロサイ1:24―2:5 

今や明らかにされた

2022年6月12日コロサイ1:24―2:5 

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1:秘められた計画

26:世の初めから代々に渡って隠されていた、秘められた計画(ミステリー:神秘・不思議・秘密)が、今や神の聖なる者たちに明らかにされた」と語ります。

神の神秘(ミステリー・不思議・神秘・秘密)が、ベールを剝ぐようにして、出現してきた。神様は隠されていたものを現わされた。

 この「秘められた計画(ミステリー・神秘・不思議・秘密」とは何でしょうか。1:27:キリスト、栄光の希望」、「2:2:神の計画であるキリスト」とあります。神が現わされたものは、「希望であるキリスト」であり、「栄光の希望キリスト」なのです。

 世には色々な希望があります。良い学校に入りたい希望、良い職業に就きたい願や希望、立派な仕事を成し遂げたい希望、こんな子どもに育てたい、

老後はこんな風に生活したい、希望は肯定的で明るさに満ちています。

しかしこれらは失望と裏腹です。これらが手に入らないと深く失望します。失望すると世間が悪い、あいつが悪い、世の中が悪いと言って外に責任を被せたりもするでしょう。落胆します。しかしキリストという希望、キリストという栄光の希望は「失望に終わることがない希望。希望(イエス・キリスト)は欺くことがない」(ロマ5と言っています。

2:キリストとは誰か

さてそれでは、キリストは一体どんな方なのでしょうか。「希望」とは一体何を意味しているのでしょうか。コロサイ書を読み進めてみましょう。

本来は114-20節まで全体を取り上げたいのですが、時間がなく出来ませ

ん。最初の一部分のみを取り上げます。

1:14-17;御子は神の見えない姿(エイコン:アイコン:肖像画:写し絵、キリストは神ご自身の写し絵)であり、すべてのものが造られる前に生まれた方(プロトートコス)です。・・万物は御子によって造られた。つまり、万物は御子によって、御子のために、造られた。御子はすべてのものより先におられ、すべてのものは御子によって支えられている。」と聖書は語ります。

 「御子は見えない神の姿」です。目に見えない神が、見える姿で地上に現れたのです。神は目に見えないのですが、地上で生きたイエス様を見るなら神を見ます。キリストに出会うなら、神に出会うのです。イエス様の愛を知るなら神様の愛を体験します。イエス様の苦しみを知るなら、神様の苦しみを知ります。弱く捨てられたイエス様、十字架に付けられ、貧しく生きたイエス様を知るなら、神の痛みや神の弱さも良く知るのです。

 万物はキリストによって造られました。御子は「造り主である神」です。キリストは万物を創り、人間を造りました。すべての被造物は「キリストによる被造物」です。

キリスト・イエスは教会の創造者です。クリスチャンではないあなたも「キリストの創造物」です。会社の上司も、両親も、「あなたの創造者」ではありません。ただキリスト・イエスが、人の創造者、あなたとわたし、わたしたちの創造者です。

 さて、さらに聖書はキリストを語ります。3:3、知恵と知識の宝はすべてキリストの内に隠されています。」とあります。まことに「アーメン」の聖句です。「2:4巧みな議論にだまされない」知恵を与えます。最近不動産屋について話す機会がありました。その時方が、「不動産屋、信じる者はだまされる。」と言いました。ロマ15章に「人は自分の腹に仕え、うまい言葉やへつらいの言葉で人々の心を欺いている。」と言っています。ウクライナの戦争が起こっています。良く聞く言葉は「プロパガンダ」という言葉です。自分を有利に導くために嘘の情報を流し、人をだまして有利に戦争を導こうとします。敵意を煽ります。プロパガンダは会社でも、教会でも、家庭でも起こります。

しかし神の前に虚偽と嘘は暴かれます。実は「神の知恵と真理」は勝利していきます。神の真理と愛は世の知恵を裁きます。それは神のミステリーです。

3,神が立てたキリスト者

さて次に、「神の秘められた計画」(ミステリー神秘・不思議・不思議)を「宣教する者」の姿を語っています。「こみだし」は「与えられた務め」となっています。

コロサイ書は「獄中書簡」と言われます。投獄されながらも自分の使命を書いています。

24-25;苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会(エクレシア)のために、キリストの欠けたところを身をもって満たしている。神はみ言葉を余すところなく伝えるという務め(ディアコニア)を、わたしにお与えになり、この務め(ディアコニア)のために、わたしは教会(オイコノミア)に仕える者(ディアコノス)となった」と書いております。

最初の「教会」は「エクレシア」です。「神が招集者であること」を強調する言葉です。集めた方は神ご自身です。神が招集をかけて今日総会を行います。点呼を取りますが、呼ばれたのは神です。 神が呼んでいるのです。 

二つ目の教会は「オイコノミア」で私たちが形成しようとする現実の目に見える教会を「形成する、立て上げる」ことを意味します。わたしたちの責任が問われる言葉です。神から招集され、共に神の家を建築するために、神ご自身から務めを与えられているものなのです。

 パウロは「「24:苦しむことも喜びとする」と語り、「キリストの欠けたところ」とは「キリストの福音がまだ届いていない世界」「キリストの福音がまだ聞かれていない世界」という意味です。そのような所に「自分のからだ」で福音を満たしていくと語るのです。それが使徒の喜びでした。

みなさんはどうでしょうか。神様は私たちに「すべてを語る努め」を与えたのです。

聖書はこのようにしてその務めの本源を語ったあとで、どのように実際働いているかも示しています。その個所を見てみましょう。「128;すべての人がキリストに結ばれて完全な者(テレイオス:最終的なもの、円熟した者、十分に成長した者、究極の者、終末的の人間=キリスト)となるように知恵(ソフィア)を尽くして、すべての人を諭し(ヌーセトゥーンテス:神様の心を人の心に置くこと)、教えている。」と書いています。

 最終的な人間であるキリストになるように、神の知恵を使って、神様の心を人の心に置くように諭しながら」教会を形成しようと呼びかけています。「教え、諭す」ことは大変人格的なことです。豊かな愛と豊かな知恵に満ちた神の御人格を、相手の心に置くように務めを果たしていたのです。

 最後に聖書は次のように語っています。「2;2この人々が心を励まされ、愛(アガペー)にあって結び合わされ(スムビバスセンテス:毛糸を編むように互いに編み込まれて)、理解力を豊かに与えられて(プレローマ:充満)、神の秘められた計画(ミュステーリオン)であるキリストを悟る(エピグノーシス:知りつくす)ようになるためです。」

 今日総会を持ちます。わたしたちは根気強く、忍耐深く働いていきましょう。教会は「キリストの神秘が満ちているのですから。希望があるので大変大丈夫です。