聖霊は語り続ける 2022年6月5日使徒言行録28章17~31節

聖霊は語り続ける

2022年6月5日使徒言行録281731

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1、死刑に相当する理由

24:6この男は疫病のような人間です。世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、ナザレの分派(22:この分派)」の首謀者です。この男は神殿さえも汚そうとしている。」とパウロは批判されます。

理由は3つあります。第一は「21:21あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して子供に割礼を施すな、慣習に従うなと言って、モーセから離れるように言っている」とあります。ユダヤ人たちは自分たちの伝統、今までの慣習、慣れた信仰生活を変えたくなかったのです。

 第二は神殿に対して罪を犯していると批判しました。「21:28ギリシア人(エフェソ出身のトロフィモ)を境内に連れ込んで、この聖なる神殿を汚してしまった。」ユダヤ人は神が民族を超えてすべての人を招いていることを忘れ去っていたのです。民族主義です。

 三つめは皇帝に対する罪です。「17:6彼らは皇帝の勅令に背いて、「イエスという別の王がいる。」と言っています。」と批判します。

 ユダヤ人はこの世の王より優れた方が来られたことを認めません。この世の王を重視しました。

2,聞く耳を失ったイスラエル

神の言葉を聞かなくなっているユダ人に対して次のように語ります。25-27節:聞くには聞くが、決して理解しない。見るには見るが決して認めない。心は鈍くなり、目は閉じ、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは癒さない。」この言葉はイザヤの言葉です。「25節:聖霊がイザヤを通して実に正しくあなたがたに語たられた」ものです。「聖霊」の語り掛けとして語られた神の言葉です。

神の言葉を聞くことは人にとって決定的に大切な第一のことなのです。バビロン捕囚は神言葉に服従しない結果です。アモスは「8:11/私は大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に乾くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇き(飢饉)である。」と語っています。旧約聖書全体が、神の言葉を聞くように、そして服従するようにと語る歴史です。サムエル記下1:14では「主が油注ぎ立てた」サウル王とヨナタンをイスラエルの民は殺害します。「主が油を注がれた方を恐れず、激しく殺害するとは何事か」とダビデは怒ります。

列王記上18ではイザベルは「主が油を注が立てた、主の預言者たちの集団」を殺害します。

詩篇105:15「わたしが油注いだ人々に触れるな。わたしの僕である預言者たちに災いをもたらすな。」とあります。イエス様も「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。お前たちの家は見捨てられる」と語っています。聖書が語りたいのは神の言葉を聞くという事です。神の言葉を読まない、聞かない、祈らないは教会の危機です。神の言葉を学び、聖霊の働きを受けて、神の言葉に服従することです。神の言葉のみが人を生かすのです。

3,語り続けるパウロ

   この迫害の中でパウロは福音を語り続けます。23:朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しをし、モーセの律法や預言書の書を引用して、イエスについて説得しようとした。」とあります。

 パウロは実によく聖書を学んでいる人、読んでいる人です。聖書を知らなければどうして伝道できるでしょうか。お店で自分の売っている商品知識がないと商売はできません。商品知識があるかないかBicカメラにいけばすぐわかります。お店のレベルや定員さんのレベルは、すぐわかるでしょう。ハバクク、イザヤ、詩篇、創世記、出エジプト記、申命記、マラキ書、ホセア書、イザヤ書、レビ記、エゼキエル書、ゼカリア書、民数記、箴言、ヨブ記、ハガイ書など、200回以上からパウロは、聖書を引用しています。総督フェストゥスが「学問のしすぎで頭がおかしくなったのだ。」と言っていますが、パウロは聖書に精通していたのです。伝え、教えるためには、自らが良く学ばねばなりません。自己研修がどうしても必要です。

28:21:ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとしなかった。彼らは互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとした。」とあります。

同じことを教えても、みんな受け取り方は違います。ある人は受け入れ、ある人は拒みます。受け取るポイントも違いますし、人は違ったように反応します。私たちは忍耐強く教える力量を持たねばなりません。私の長い牧師の経験から言っても、これが教育の実際でしょう。

  どんなに上手くない説教でも聞きとる人は肯定的に上手に聞き取ります。どんなにすばらしい説教でも、聞き取れない人は聞き取れません。聞き取れる人は、上手に説教に参加すると思います。み言葉を学び、神の言葉を日々学び、祈りつつ生活しましょう。

4,妨げがなく、語った聖霊

 さて最後の締めくくりの部分を読んでみましょう。

31節:まったく自由に何の妨げもなく、神の国を述べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」とあります。

パウロは何の妨げもなく、福音を語ったように書いてあります。ここには著者のルカの神学的視点があります。

それは聖霊の働きによって福音は広がっていくという視点です。

1:8/あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」「2:1聖霊が降ると・・ペンテコステ」「6:3信仰と聖霊に満ちている人・ステファノ」「8:29聖霊が語り掛けてエチオピアの宦官に語る・・フィリポ」「9:17聖霊に満たされて目が見るようになったパウロ」「10:44 聖霊の働きでバプテスマを受けるエルサレムの人々」など、聖霊は語り続け、聖霊はささやき、聖霊は救いを起こしていきます。

宣教も弁明もバプテスマも引き起こしていくのは主の霊です。「伝道の妨げ、宣教の困難、伝道の苦しみは」は聖霊の働きの後から起こってくるもの、二次的なものです。

聖霊が何の妨げもなく、まったく自由に聖霊は働くのです。神ご自身が何の束縛もない自由な霊です。

コリ3:17「主とは霊のことです。主の霊がおられるところには自由があります。」自由である聖霊は恐れることのない真理を教え、忍耐深い愛を教えます。そして聞き従い、聖霊に服従する者に喜びを与えます。真理の御霊こそがわたしたちを解放し、真理に服従させるのです。それが宣教です。聖霊が教会の上に輝いて働くのです。

 

 ペンテコステの日ですから、使徒言行録を学ぶのです。聖書教育にはそのような「隠されたカリキュラム」があります。