鎖に繋がれながら 2022年5月22日使徒言行録26;19- 32

鎖に繋がれながら

2022年5月22日使徒言行録26;19- 32

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1,審問を受ける

 パウロはわたしたちの生活の現場とは全く違った状況にます。25章では、祭司長たちやユダヤ人の長老たちはパウロを訴え出て有罪の判決を出すように要求しています。今日の個所26章では総督フェストゥスとアグリッパ王の前です。現代で言えば市議会に引き出されたり、裁判所に出廷して弁明するようなものです。しかも手には鎖がつけられたままでした。

 使徒言行録のパウロはパウロが書いた真筆7書簡とは全く違ったパウロの姿を描いています。231-11では最高法院で、2410-23では総督フェリクスの前で、2513-27ではアグリッパ王の前で力強く証しと弁明を繰り返します。当時の政治家官僚や主教官僚の前で語ります。パウロは自分の回心の体験を語り、イエス様の十字架と復活を語り、恐れることがありません。またユダヤ人の陰謀で殺害されそうにも成りますが、パウロは恐れずに語り続けるのです。使徒言行録の著者ルカは英雄伝のようにパウロを描いているのです。

2,パウロの使命はどこから?

 このようなパウロの英雄的な働きの源は何だったのでしょうか。パウロが孤独に耐えて、生きる望みを失うことなく語れたのは何故でしょうか。その源は何でしょうか。

10節;わたしは天から示されたこと(オプタシア:幻/ビジョン:天からのビジョン)背かず(ウーク・エゲノメーン・エペイセース/不信仰にならず・信仰を拒むことをせず)」と語っています。パウロが裁判で弁明することができたのは「天からのビジョンに忠実に服従したこと」に寄ります。12:王と、わたしは天からの光を見たのです。」「16:私があなたに現れた。」と述べています。パウロは天からの光を体験しました。イエスが彼に出現したと言います。神の光、キリストの出現が先行します。この直接的な出会い・キリストと直接的な体験はパウロの強さの源です。

直接・明確にキリストがパウロに語りかけるのです。パウロは幾度も語ります。「ロマ1;1,神の福音の為に選び出され、召されて使徒となったパウロ」と自らを呼びます。「コリ1:1

のみ心によって召されて使徒となったパウロ」「コリ1:1神のみ心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」と自覚しています。ガラテヤ書でもそうです。源は神に発します。「神が関わる」ことによってパウロを動かしたのです。

 26:16、起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、わたしがこれからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。」とあります。

神が直接働いて、神が立てたのです。キリスト者は神に立てられ、語るのです。キリスト者の源はイエス様との出会いです。あなたはどうでしょうか。神の言葉は神の豊かさ、知恵、喜びを語ります。しかし人の知恵は争いと分裂を生みます。

3,悔い改めを伝える

 さてこのようにして神に召されたパウロは一体何を語ったのでしょうか。

1つは「21:悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようと伝えた。」とあります。パウロは

「悔い改め」を語りました。

悔い改めると「メタノイア」は「心を入れ替える、」という意味です。古いものは捨てて、新しいものに入れ替える。エンジンオイルを入れ替える。メタは「交換する」。ノイアは「知性・理性」です。神の心と自分の心を入れ替える。今までは自分中心であったが、神中心に物事を考える。聖書を読んで、聖霊に感じて聖霊の心で生きる。聖霊が自分中心の心を追い出して、溢れる聖霊で生きることです。聖書を読んで人間の心や理性よりも一段と高い神の知恵を頂くことです。

 最近「メタ認知」ということがよく言われます。人間を決定するのは「自分を認識する客観的な自我の健全さ」だと言われます。自分をどう認識しているかという自分を認識する自分の健全さが私たちの心理の健康さを決定するのです。心理学では「超自我」と言われます。

教会は超自我をキリストの愛や十字架や贖いや赦しに置くならば、私たちは永遠の自我の喜び・教会の喜びにに生きることが出来るのです。

イエス様のみ心に触れて、自分の心を満たしてその心で生きる。自分の意識で悔い改めるのではなく、聖霊に入って頂き霊を入れ替えるのです。聖書を読んで罪の赦しを与えられて、聖なる者とされてその恵みで生きる。聖霊と自分の魂を入れ替える時に、赦しの経験をして心満たされます。真理への感覚は鋭くなり、罪への嫌悪は強くなります。不安は消え去り心が平安成ります。真理に生きることの豊かさはこの様に養われていくことを体験します。

 

4,イエス様の出来事を伝える

 もう一つパウロが伝え、勧めたことがあります。23節:私はメシア(訳せば:キリスト)が苦しみを受け、また死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」

「述べる」は「カタゲイロー:公的に告白する」と意味です。密かに誰にも知られないように告白するのではありません。今流に言えば、「カミングアウト」です。「メシアの苦しみ」すなわち「キリストの十字架の苦しみ」を告白しました。

 パウロの神学は「十字架の神学」と呼ばれるほど十字架の出来事はパウロにとって決定的な出来事でした。彼は「日々イエス十字架が目の前に描かれている」というほど、十字架のできごとを身近に感じていました。「キリストの復活がなかったら福音は無駄だ。」と語っています。

 イエス様は私たちの人間の罪を贖い代価としてご自身を捧げました、そして神と私たちの破れた関係を再び結び付けて下さったのです。キリストの贖いは、わたしたちを闇から、罪から、律法の呪いから、不法から救います。その喜びが伝道の内容でした。神と人間の間にある永遠の深い溝に、橋を架けて下さったのです。大切なのは私たち人間ではなく、橋となったイエス様ご自身なのです。信仰生活とは「わたしたたちを贖って、買取って、罪から解放して下った贖い主・キリスト」に一層目を向けてキリストの贖いを喜ぶことです。あなたは贖いの喜びに生きていますか?いかがでしょうか。贖いの喜びの日を過ごして参りましょう。