人と神の前で 2022年5月15日使徒23章1-11節

人と神の前で

2022515日使徒23章1-11

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1、千人隊長

 今日の裁判の話の発端は千人隊長です。30:千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを思い、彼の鎖を外した。そして祭司長たちと最高法院全体の招集を命じ、パウロを連れ出して彼らの前に立たせた。」とことの発端が書かれています。

 10節:千人隊長はパウロが引き裂かれてしまうのではないかと心配して・・力ずくでパウロを助け出し、兵営に連れていく様に命じた。」とあります。2224節以下でも同じような行動を取っています。

 キリスト教徒でもなくユダヤ教徒でもないローマ人が「ローマの市民権を持つパウロ」を助け出します。彼は宗教、民族で人を判断することなく「ローマ法」に基づいて宗教者パウロを暴動から保護するという役目を実行します。法と秩序で「宗教者の暴動と憎しみ」から守るのです。宗教者たち自身が人が見えなくなっていました。自分たちの信仰に合わない者は排除しても良いと考えました。この宗教者の狭さはルターやカルバンがアナバプテスト言われた人々を焼き殺したり、川に投げ込んで殺害したりする宗教改革と重なります。それは現代でも、そして私たちの教会でも起こりうることです。最高法院は「権力無き者」がどんなに苦しめられているか全く見えません。

キリストはその様にして殺されたのです。

2、大祭司アナニア

 大祭司アナニアは最高法院の長でした。最高法院は70名からなります。刑事裁判、商業の裁判、家庭問題、そして宗教・思想裁判を行う場所でした。大祭司アナニアは一度エルサレムでの暴動の鎮圧に失敗し、ローマに送られます。しかし嫌疑不十分としてエルサレム返されました。彼はこの事件以来ローマ皇帝から罪がないというお墨付きを貰ったと自信を持ち、強い権威と権力を振るうようになりました。

大祭司アナニアはパウロが気にいらず「2節:彼の口を打つように命じます。」これは現代では、一種の権威や立場を利用したパワハラです。自分にはその立場や権利があるとして、口封じを命じます。秩序維持のために立場、権威、上に立つものとして強制します。パウロが反論すると、周りの人々は「4節:お前は神の大祭司をののしるのか」とパウロを攻め立てます。

 しかしパウロは3節:白く塗りたる壁よ。神があなたをお打ちになる。」と語ります。この言葉はイエス様のファリサイ派批判の言葉と響き合っています。「マタイ2327、律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れたもので満ちている。」と批判しています。この批判の言葉はエゼキエル書1311節の言葉に由来します。パウロ、イエス様、エゼキエルは何が言いたのでしょうか。「白く塗った美しい壁」とは正論、矛盾がない論理、正しいと見解です。「死者の骨や汚れたもの」とは何でしょうか。それは嘘、誤魔化し、罪、悪と言っても良いでしょう。このような人間は「私は何か変なことを言っていますか。」という言葉です。特に外見は正論ですから矛盾はありません。この様な人間は最近はサイコパス等と呼ばれています。このような人間は正論が他者を心を傷つけていることに無感動です。

11節:神があなたをお打ちになる。」と語っています。主の審判を意味します。12:23(自分の力を過信したヘロデ王に対して)主の天使がヘロデを打ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデ王はウジに食い荒らされて息絶えた。」とあります。

大祭司アナニアは市民からは人気がありました。彼は後に餓死者を出すほどの失政を行います。最後はAD70年に蜂起したユダヤ教過激派熱心党達に殺害されます。人の口を封じるために、立場と権威を利用して、弱い立場にある人を打ちます。しかし神は更に厳しく打たれることを心に止めておくこと」が大事です。神の裁きの厳しさを甘く見ないことです。

3、復活を信じる

 パウロが裁判に晒された理由があります。6節:死者が復活するという望みを抱いることで、わたしは裁判にかけられているのです。」と言っています。

 最高法院はユダヤ教の宗教制度でもありました。宗教的な生活やユダヤ教の戒律や教義についても審判をする所でもありました。「思想裁判」の場所です。復活についてファリサイ派とサドカイ派との意見の違いがありました。パウロはもともとファリサイ派でしたので、復活を信じる者でした。今日の個所でも「7:論議が生じた。」「7:最高法院は分裂した」「9節:騒ぎは大きくなった。」「10:こうして論議は激しくなった」とあります。

 聖書は論議と争いの書です。使徒言行録は「弁論の書・弁明の書」です。アポロギア(弁明)と呼ばれる論議はギリシャ・ローマ文化の基本でもありました。パウロはアレオパゴスの丘での論議、会堂でファリサイ派やサドカイ派の人々との論議、エルサレム教会でペテロや主の兄弟ヤコブとの論議、コリント書では「大使徒たち」と人気絶頂だったキリスト者と論議します。

論争によってイエスを信じるとはどんなことが伝道されていきました。

 2:24;神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるということはありえなかった。」と常に証しし、弁明します。この論点を外すことはできなかったのです。

4、「勇気を出せ。」

 主はパウロに語り掛けます。「11節:勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」と語ります。

 24章では総督フェリクスの前で裁判を受けます。25章では総督ポルキオ・フェストの前で裁判を受けます。26章ではフェストとアグリッパ王の前で裁判を受けます。パウロは次々と裁判にかけられていきます。そのたびに同胞のユダヤ人から殺害や脅しや騒ぎに巻き込まれます。しかしパウロは「ローマの信教の自由」、また「ローマの市民権」に守られて、弁明を重ねて、命をながらえていきます。パウロを守ったのはローマ法に詳しい、宗教と権利のわきまえている、政府の高官、法律家の人々でした。むしろ立ち騒ぎ、陰謀をたくらむのは当時のユダヤ教徒の人々でありました。その意味で神は異邦人・ローマ人を用いてパウロを助けていくのです。クリスチャンでない人々に助けられ、伝道の道を歩んでいくのでした。

 

 主は言われます。「11節:勇気を出しなさい。」試練に打ち勝つ力を与え、主は導きます。わたしたちは今週も恐れず、試練に耐え、忍耐しながら、信仰の道を進んで参りましょう。勇気を出して、職場で、家庭で、家族や同僚と共に勇気をもって働きましょう。