それでもエルサレムへ 2022年5月8日使徒20章17-38節

それでもエルサレムへ

2022年5月8日使徒20章17-38節

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1,取るに足りない者として

 パウロはエルサレム教会に献金を届けようとします。友人たちは迫害に会うかもしれないから行くなと言います。パウロはそれでも使徒会議の約束を果たそうとして、エルサレムに向かうのです。その際に告別の話をします。大切な個所を上げながら説教をします。

第一は「19節:自分を全くとるにたりないもの」と考えていることです。「タペイノプロスネー」で、「謙遜である」「謙虚である」「心が低い」の意味です。幾度も使われる言葉ではりません。しかし聖書の中でも最重要の言葉です。フィリピ2:8「へりくだって、死にいたるまで、それも十字架の死に至るまで、従順でした。」「へりくだって」という言葉です。この言葉が道徳的な言葉ではありません。パウロは「へりくだり」「謙遜」「とるに足りない者」という時に、イエス・キリストの十字架の弱さがピッタリと貼りついています。「とるに足りない者」という時、パウロはキリストの十字架のように生きたい、キリストが死に渡されたということを、いつもつねに最も意識しています。彼は十字架のキリストとほぼ一体になっていたと言っていいでしょう。「涙を流して伝えることも」「力強い証し」も「悔い改めを求める熱心」も、イエス・キリストの十字架の出来事から起こることでした。

2,聖霊の働きによって

  第二は聖霊の働きということです。「22:霊に促さて(デオー:強いられて、掴まえられて)エルサレムに行きます。」。聖霊が働いてエルサレムへ行くように掴まえて動かした。「23節:聖霊がどこの町でもはっきりと告げて下さっています。」聖霊は苦難と試練を予告し、何が起こるかを教えます。「28節:聖霊は御子の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるためにあなたがたの群れの監督として任命なさった。」と語ります。聖霊は人を任命します。

 牧師として申しますが「聖霊を受けました」という人は気を付けるようにしています。聖霊を受けたと言って興奮している人には問題を起こす人が多いです。隣人を無視するようになります。「へりくだる」ということと「聖霊をうけるという」ことが両立することが大切です。聖霊は十字架のキリストの姿、十字架の弱さの霊です。「へりくだり」の極意と「聖霊」は連続する。「聖霊を受けました」という人が「教会の奉仕に謙遜でなかったら」聖霊の奉仕する意味が分かっていません。「聖霊を受けた」と言いながら「祈りができない人」は信仰を吟味すべきでしょう。祈りの奉仕がない人は聖霊を弄びます。

3,邪説を唱えて惑わす者

 第三にパウロの試練ついて語りましょう。パウロは十字架のへりくだりと聖霊に促されて立てられたことによってこそ多くの試練に出会います。「数々の陰謀が身に降りかかり」(19)、「投獄と苦難とが待っている」(23)、「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなた方の所に入り込んで来て群れを荒らす」(29)、「あなたがたの中からも邪道を唱えて弟子たちを惑わせる」(30)とあります。「私は他人の金銀や衣服を貪ったことはない。」と語っています。

「邪説を唱える人々」とは同じイエスを主と告白するキリスト者たちです。神学的には「ユダヤ教の割礼の伝統を重んじつつキリストを主とする人々:キリスト教割礼重視派」と言われます。使徒51節に出てきます。それはエルサレム教会の「柱」と呼ばれる人々の流れにある人々です。その影をうっすらと、2121節にも見ることが出来ます。エルサレムに到着したパウロに対してエルサレム教会の人々が次のようにパウロを批判します。21:21;あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して『子供に割礼を施すな。慣習に従うな。』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。・・・・わたしたちの言うようにしてください。」と言います。そして頭を剃る式(ナジル人の誓願)のために持って来た献金を使うようにと促します。これはユダヤ教の伝統に基づく献身の式なのです。これは明らかにパウロの信仰とは対立します。

「金銀を貪ったことがない」とはどいう意味でしょうか。パウロは使徒会議によって約束したことを必死で果たそうとします。色々な街でエルサレム教会を支える献金を求めます。しかし人々は「彼は金をかすめ取っている」とさげすみます。「他人の金銀を貪って献金をエルサレム教会に送ろうとしている。」と批判します。

「衣服を貪るとは、キリスト者の家を転々として伝道しているが、あれは人を利用している」と悪評を受けたことを意味しています。これらの問題はパウロの直筆コリントでも語られています。

このよう衝突を聞くと宗教はだからいやだという方もあるでしょう。しかし後に「パウロの思想こそが」キリスト教として残っていきます。通常私たちがキリスト教と呼ぶのはパウロの考え方です。パウロの戦いはキリスト教信仰とは何かを証しする最初期の戦いの様子なのです。

 

 

 4パウロが語る三位一体の神

 さてそれではパウロは一体どんな神を語ったのでしょうか。多数上げることが出来ます一カ所だけ聖書箇所を上げて話してみたいと思います。それは2028節後半です。「28;聖霊は、神の御子の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督にお建てになった。」という部分です。

 聖霊が監督に立てた。キリストのことを「神の御子」と呼んでいます。神は「御子の血よって(教会を)ご自分のものとした」と言います。教会は神の御子の血によって神のものとなったのです。神のものとなった教会は「神の教会」と呼ばれています。この教会の監督に立てるのは聖霊です。複雑な構造です。神と聖霊と御子は互いに働き、教会を立て上げ、神のものとして立っているのです。その働きに奉仕する監督を立てるのは、聖霊なのです。三位一体的のはたきがうっすらと見えるようです。

 湘南台教会もまた御子の血によって、神のものとされました。そしてここにおられる皆さんは教会に仕える奉仕者として聖霊が選び、立てたものなのです。教会は神のもとなったものなのです。

 

 教会は神のものとなった故に、わたしたち一人一人が神のものとされ、御子の血によって神のものとされているのです。教会は神の御子キリストの血によって贖い取られたものなのです。