アテネでのパウロ 2022年4月24日使徒16-34節

アテネでのパウロ2022424日使徒16-34

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1、多神教の世界で

  聖書物語は多神教の世界を生き抜いていく物語です。アブラハムの物語、モーセ物語、イスラエル12部族の物語、イザヤ・エレミヤ・エゼキエルなどの預言者の物語、詩篇や箴言や雅歌などの書も背景は「多神教世界」です。多神教の世界を潜り抜けるように神は働きかけます。多神教の世界の中へ「神の言葉」を語りける。

パウロが伝道したギリシャ・ローマ世界はまさにそうでした。八百万の神々が住む日本とよく似ています。ギリシャ・ローマ世界はスポースが好きでスポーツは神々の祭典です。芸術や文学や哲学が好きで神々の神話に満ちていました。ギリシャ神話の何と魅力的なことでしょう。物質文明の世界でもあり人々は新しいもの・物に魅了されていました。またローマ皇帝崇拝と高度な政治組織と官僚制からなる政治世界でした。天皇制や日本の徹底した官僚制と、よく似ています。

1、多神教の世界で

16:至る所に偶像があるのを見て憤慨した」とあります。パウロは「16:ユダヤ人の会堂(すなわちシナゴーグ)」でも伝道します。「18節:エピクロス派やストア派の人々と討論した。」ともあります。パウロは当時の哲学とも対話します。29節ではギリシャ詩人の詩が紹介されます。それはエピメニデスとアラートスという詩人の詩です。パウロはギリシャ・ローマ文明の中で、論議し、時には論争し、伝道しました。苦難の連続でした。

18節:彼は外国の神々を宣伝する者らしい。」とギリシャ人はパウロに興味を示します。「19節:あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことを知らせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」と近づいてきます。「21節:アテネの人やそこに在留する外国人は何か新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、時を過ごしていた。」とあります。

新しもの好きだったのです。日本人の私たちと似ているのです。パウロはこの様な人々と格闘します。

2、聖書が証しする神様

 それでは一体パウロは聖書が啓示する神をどのように伝えたのでしょうか。

神は創造主・天地の主

 24:世界とその中の万物を創られた神がその方です。この神は天地の主です。」と話し始めます。聖書の神は創造者です。聖書の神は天地の主です。人間や自然は被造物(創られたもの)と言われます。人は神には成りません。人は神のようにも成りません。障害を持つ人は神の欠陥品ではありません。神の愛はそのような人を愛して創造したのです。「人の存在:あること=いること」に差別や区別はありません。

神はすべての人に命と息を与える

 「25節:すべての人に命と息を与える。」とあります。神は命を与えます。それは物理的な心臓が動く命でもあります。しかしまた心の命、聖霊による霊的な命をも与えます。神は霊の息を吹き込み人を生きた者としました。神の聖霊を与えられることによって人は生きたものとなります。そのような経験は毎日することができます。聖書のみ言葉、神のみ言葉は私たちに生き生きとした心の喜び、生き生きとした聖霊の喜びを日々吹き込みます。決して失望や虚無や人を貶めることのない健康的な霊を与えるのです。

神は探せば見出すことができる。

 「26節:一人の人(アダム)からすべての民族を創り、至る所に住まわせ、季節を決め、居住の境を決めた。そして探しさえすれば神を見出せる。」と語ります。民族や居住地の決定は神の働きの中にあります。それは運命や神の一方的な決定を言っているわけでありません。それは探せば人は神の創造物であり、民族や居住区も人間のものではなく、神のものであることを示します。その意味と価値は探し求めねばならいものです。民族や居住区も人間にとって絶対的なものでありません。

神の中に生き、動き、存在する。

 「2728節:神は私たちから遠く離れているのではない。我らは神の内に生き、動き、存在する。」とパウロは語ります。私たちはたった一人、世に放り出された存在ではありません。たった一人孤独に生きているのでありません。神は近くにおられ、人が孤独になることはありません。神ご自身が神ご自身の方から私たちと交流すること、出会いたいと思っています。神は常に探せば見いだせる、出会える方なのです。ですから神は希望と愛です。

悔い改めるようにと求めている。

 「30節:今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと命じています。」とあります。人は神の被造物であり、神は近くにおられます。神が求めておられるのは「悔い改め」です。自分の誤りを認め、神に謝罪し、神のみ心に生きる意志を新たにすることです。多くの人は「あなたはありのままで良い」と言います。しかし神は更に良い神との関係を結ぶために、一層「ありのままよりも一層喜びにあふれる、「悔い改め」を求められるのです。悔い改めを厳しいからいやだという人もいます。悔い改めは弱い自分や罪を見つめなければありません。しかし悔い改めは神の深い愛を経験させ、人の信仰と人格を一層成熟させるものです。悔い改めることのない信仰は頑固さと罪を一生懸命隠す言い訳の多い信仰になります。悔い改めの実は豊かな聖霊の実を結ばせてくれるのです。

 さらにパウロは信仰の中心、核心を語ります。「31節:先にお選びになった一人の方によって(イエス様によって)、この世を正しく裁く日をお定めになった。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にその確証を与えられた。」と語ります。

 第一に「復活したイエス・キリストであるからこそ、再び世に来られ、再臨し、世を裁かれる」ということです。生きて今も働き、イエスの言葉、生きて働き天上にあって聖霊を与えるキリストは、人に「正しく裁いて下さることの喜びと英知」を示されるのです。正しく公平で愛と真理に満ちたさばきは、美しく平安に満ちた「生きる勇気」を与えてくれるのです。

 

 しかも31節後半、すべての人に裁きの日の確証を与えた」といいます。「復活こそは裁きの日の確証」です。どういう意味でしょうか。にわかに理解しがたいです。それは「裁きの日」には人が復活するということの証明です。パウロは「キリストとその復活の力とを知り、その苦しみに与って、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したい」と語ります。パウロの希望は、十字架の姿に倣っていきること、十字架の姿にあやかって死ぬことでした。そのように死ぬならば、キリストが復活させられたよう人は復活するのだという希望を持ちました。悲惨な十字架の死であっても、神はその様な死を見放すことはないのです。むしろそのような人を復活させるのです。それがパウロにとって信仰の希望でした。富むことよりも貧しくなること、支配するよりも僕として黙った羊のように謙遜に静かに生きることこそが復活へと続く道なのです。それは神の約束・契約なのです。嘘と誤魔化しに生きる者は人を、楽に人を支配するでしょうが、永遠の真理を見ることはできません。真理と謙遜に生きる者は苦難に会うでしょうが、永遠の命を与えられるのです。