約束のことば 2022年4月17日マルコ福音書16:1-8節

約束のことば

2022417日マルコ福音書161-8

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1、「結び一」と「結び二」

  マルコによる福音書には終わり方が2種類あります。結び1で終わるものと結び2で終わるものです。一般的には長い終わり方の「結び2」が最も有力な写本であると言われます。この「結び2」の写本はシナイ写本などと呼ばれ、大文字のみで書かれた写本です。

ギリシャ語聖書の原典「ネストレ・アーランド版」はこの二つを一緒に取り上げています。このギリシャ語原典に即して、そのまま「1,2」として日本語訳しています。私たちが使っている新共同訳聖書は「ギリシャ語聖書・ネストレ・アーランド版第3版」で、最も新しいものは第28版です。岩波訳が最も新しい版でこれは第27版の翻訳です。

2、十字架で死んだ人を弔いに行く

  16:13節を読んでみましょう。3人の女性たちがイエス様の遺体に香料を塗るために香料を買ったと記されています。当時死んだ人の死臭を消すためにオリーブ油などを塗りました。腐るのが早い気候ですので、その仕事はとても大切な仕事でした。また葬りは亡くなった人を大切にすることでもありました。

通常、近親者や名前などがわからない時は死体と呼ばれます。関係者や近親者や身元が分かると「死体」は「遺体」と呼ばれます。「死体」は物体ですが、人と人との関係が判ると「人間」になります。また「葬儀」を行うのは人間のみです。人間と動物の大きな違いです。人は死を悼み、死んだ人の人生に敬意を示し、その繋がりを大切します。今日は天に送った方々を目の前にしています。弔いや葬儀は亡くなった方々への敬意と尊敬を現わすのです。「2人のマリアとサロメ」の3人の油を塗る行為と私たちの葬儀の姿は重なります。

さて弔いの行為から始まる物語はどのように進んでいくのでしょうか。聖書はどのように復活をかたるのでしょうか。それを見ていきましょう。

3,取り除かれた石

第一に死と命を隔てる石が取り除けられているということです。「3節:だれが石を転がしてくれるだろうか」と話しつつお墓に近づいていきます。当時の墓は岩を横に掘ったもので、身長の2倍くらいある石で封印するのが普通でした。力のない女性にとって大問題だったでしょう。しかし、その墓石の石が転がされていました。入り口は開けられていました。誰が取り除けたのか明快ではありません。死と命を隔てる石は、取り除けられるのです。また彼女たちは一つの宣言に出会います。白い長い衣を着た若者が彼女たちに語ります。6節:驚くことはありません。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって(原文は受動態で復活させられた)、ここにはおられない。」と告げます。

復活は「宣言から始まる」ということです。復活とは「ナザレのイエスが神によって復活させられた、神がイエスを復活させた」という宣言から始まります。復活は信じる人には起こるが、信じない人には起こらないというようなものでありません。神ご自身が、ナザレのイエスを復活させたという宣言から始まるのです。神はナザレのイエスを十字架の死から復活させることができるのだ。そう宣言します。

死とはここで肉体の死を意味します。しかし聖書では「絶望、虚無、見捨てられること、無価値と判断されること、無意味、無目的、無関係、虚無感、混乱や無秩序」等を意味します。

神はこのような死を命へと変える方です。命の創造者です。それは創世記1:1、「死から、形なく虚しく神の霊が水の面をおおっていた。神は光あれと言われた」という創造の物語を思い起こします。この創造は「クリエイティオ・エク・ニヒロ(無からの創造)」と言われます。神は命を創造します。

 二番目の若者の言葉を見てみましょう。若者は告げます。「7節:弟子たちとペテロに告げなさい。あの方(ナザレのイエス)は、あなた方より先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれると。」

弟子たちが復活の主に再会する場所は「ガリラヤ」です。ガリラヤとはどんな場所でしょうか。弟子たちはイエスと同じガリラヤ人です。イエス様と同郷です。また「1:9:イエス様がガリラヤのナザレから出て行きヨルダン川でバプテスマを受けた場所」です。「1:15 時は満ちた、神の国は近づいた」と語り、公生涯を始められた場所です。「1:16、ガリラヤ湖畔で漁をしているペテロやアンデレを召された場所」です。悪霊を追い出し、埃だらけの大地を巡回して伝道し、腐ったようにただれた皮膚病を癒し、野のユリやアンモネが咲き、さわやかな風に吹かれながらガリラヤ湖の丘で神の国を語り、ひもじくおなかをすかした子どもたちにパンと魚を与えました。苦しんでいる人を見て、おいおい泣いたこともあります。時に「故郷ナザレ」では人々から迫害される経験もします。このように「ガリラヤ」はイエス様と弟子たちにとって生活の息使いが聞こえる現場です。

わたしたちの実生活も、多くの痛みや悲しみが終わることなく襲ってくる場所です。時として、それは「神無しの世界」のように見えます。私たちが礼拝を終わって出て行く世界はガリラヤのようです。その実生活の中で、キリストと出会うのです。まさに十字架を負わねばならないような世界の中で、復活のキリストに「お目にかかる」のですさらに「7節;先にガリラヤに行かれる。」とあります。すでに「先に」行っておられるのです。キリストは現場の苦難の地に「先に」おられます。わたしたちを「先に」待っているのです。そして「7節:そこでお目にかかれる。」と若者は告げます。これは約束のことばです。この言葉は神の契約の言葉です。この言葉は神の誠実な約束の確実さを示します。これもまた宣言の言葉です。「必ず会うことになる」という「神の断定・約束」を示します。

しかし本当でしょうか。最期の結びは不安な結びで終わります。8節:婦人たちは逃げ去った。震え上がり、正気を失った。誰にも言わなかった。恐ろしかった。」と結びます。これは私たちの現実の不安を現わします。「復活した」というが、本当にキリストは復活したのだろうか。「ガリラヤでお目にかかる」というが本当にそうだろうか。「行って告げなさい。」というが、まだ会ってもいないのに、伝道なんてできるわけない。復活のイエスなんて会ったこともない。約束だけでは不安です。出会った証拠が示せない、「実体験なし」だからです。だから「8節:黙って誰にも話しません。」というのです。

さてしかし、求められているのは、宣言への信頼、宣言への信仰です。私たちは復活の主を必ず体験することができます。必ずガリラヤでお目にかかります。そして感謝と喜びに溢れます。そのことに信頼しましょう。求められているのは、神への信頼ですし、神への信仰です。

 

私たちは「神への信頼と信仰」という船に乗って進んでいくとき、主に出会うことが出来るのです。教会とはこの「信仰の船、神への信頼の船」のことです。復活の証明は教会が示します。復活は教会の存在によって証明されるのです。