あらわになった神
2022年4月10日マルコ福音書15:21-41
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1、十字架の上の6時間
21~32節は十字架の上の6時間の物語です。「29節:十字架につけたのは午前9時であった」とあります。「33節:午後3時にイエス様は大声で叫ばれ」息を引き取られました。イエス様は6時間、十字架の上で苦しまれたのです。いい加減な裁判、群衆の熱狂的な興奮の叫び、弟子は増えず、伝道は失敗し、弟子たちは逃亡し、茨の冠を被せられ、唾をかけられ、からかわれて、捨てられました。
この十字架上でイエス様が聞いたのは、ただただ「あざけりの言葉」です。「28:二人の強盗と共に十字架につけられる。」「29節:通りすがりの者は頭を振って、イエス様をののしる(冒涜する)」「30:自分を救ってみろ」「31:律法学者や祭司長たちは(侮辱する)なぶりものにする」「32:一緒に十字架につけられた者たちもイエスをののしる」。
6時間は長い、長い時間大変長い時間に感じられただろうと思います。肉が裂け、傷が痛み、釘の激痛があり、裂かれた体から血が噴き出て流れ、意識は薄れ、悲しみや痛みとは、心を錯乱させるほどの状態であったのです。十字架刑に付けられた者は気が狂ったようになったと言われています。このようにして神の子イエスは失望と落胆、人々からのあざけりのお受けになりました。
2、イエス様の死の姿
33~38節まではイエス自身の死の姿が描かれています。「昼の12時ころ全地が暗くなり、それが3時まで続いた。」「34:わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と大声で叫ばれた。」。「35節:救い主エリヤは現れず。キリストを救いません。イエスはエリヤにも捨てられた者となった。「36節:酸い葡萄酒口につけられ、(兵士は延命を図り、苦しみを長引かせようとする)」「37節:(遂に)イエスは大声を出して、息を引き取られた。」とあります。イエスは遂に十字架の上で罪人として見捨てられ、公開処刑の中で見殺しにされていく。通常十字架で死んだ死体は、鳥の餌なるか、ゲヘナ(地獄)と呼ばれる「遺体の捨て場」に投げ捨てられるのが慣例でした。新生賛美歌207番2節「そのこうべには、冠もなく、その衣には飾りもなく、貧しき村の大工(たくみ)として、主は若き日を過ぎたまえり。」を思い起こします。冠もなく、飾りもなく、一切を削がれたのです。そこには見るべき栄光の姿はありません。
3、本当にこの人は神の子であった
さてイエス様の十字架をどのようにマルコは理解したのでしょうか。そのことが37節以降に示されます。三つの点を挙げています。
第一に38節~39節の部分を読んでみましょう。「38節:神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」とあります。
神殿の幕とは「至聖所と聖所を分ける幕」です。至聖所は神の臨在の場所です。ここには年に1度大祭司が入るのみです。聖所は「通常祭司たちが祭儀を行う場所」です。その境目にあるのが「至聖所の幕」です。この幕は青、赤、紫、緋色の羊の毛を染めた毛糸を使います。それに加えて、亜麻の寄り糸を縦糸に使い、つづれ織りにしたものです。さらにこの幕を金箔で覆ったアカシア材5本で支えます。この幕を金で覆ったアカシア材に引っ掛ける「鉤(フック)」も金で造られていました。実に色鮮やかで、豪華な幕でした。聖所も至聖所も壁は全面金で覆われ、蠟燭を飾る燭台、机なども全部金で覆われていました。大変神々しく、まぶしい部屋でした。
この美しい幕が裂けたとは、キリストが聖所と至聖所の境を破ったことを意味します。キリストは神の臨在の場所に入ることができるようにと、贖いの小羊となられたのです。「イエスは垂れ幕、つまりご自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちの為に開いて下さった。」(ヘブル10:20)と書いています。
第二に百人隊長の告白が語られています。すなわち「39節:百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そしてイエスがこのように息を引き取られのを見て、本当にこの人は神の子だったと言った。」
「百人隊長」とは軍人です。約200~300名の部下を指揮する軍人です。「子」とは「神の姿そのものを啓示する者」「神と完全に同じ人格を持つ方」を意味します。通常「神の子」とは代々ローマ皇帝に使われる称号です。ローマ皇帝は「神の子」と呼ばれました。天皇と似ています。天皇も「現人神」と呼ばれました。ローマ人すなわち異邦人の百人隊長は「十字架につけられたキリストを神の子」と呼んでいるのです。十字架につけられ、無残な死に方をしたイエス、人を愛しぬき、羊のように無言の内に十字架を負い、権威や決力を全く失い、無言で苦難の道を歩く方が神の子であると告白しているのです。
神は十字架につけられたキリストに現れたのです。これが聖書の神理解です。悲惨な死、十字架という惨めな死を遂げたイエスが神を啓示する方であると告白しているのです。あなたは「どんなイエス様を神の子」と告白していますか。
さて第三に34節のイエス様の言葉を取り上げたいと思います。「34節:エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、絶望の言葉を語っています。これは詩篇22編の言葉であると言われます。少し長いですが引用します。
「22:わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も黙することをお許しにならない。」とあります。
最近は「心の呻きや痛みや苦しみ」を「愚痴」と言って退ける傾向にあります。苦しみを現わす方法を否定してポジティブに生きようと言って黙らせます。すぐに立ち直る、いつも元気が良いとされますが、これは悲劇的な傾向です。このようなポジティブシンキングな人は心を披歴することをせず、隠します。弱みを見せると仕事にならない、弱さを表に出すと人に迷惑をかけると思うのです。
しかし詩篇の記者もイエス様も心を注ぎだして祈ります。弱さも痛みも不信仰も不安も隠すことなく、心を注ぎだして祈っているのです。「愚痴」ではなく、痛みを注ぎだしているのです。
苦しい肉体の痛み、つらい精神的な痛みを注ぎだす時、苦しみを苦しみとして表すとき、神はそれをよしとされます。神は痛みと悲しみを共有します。しかもこの苦痛と絶望の披歴を通して、復活へとつながるのです。この十字架の道を通って復活へ、神の救いへと繋がるのです。神は十字架の惨めさを捨て去ることはなさいません。
私は6カ所に手術の傷が残りました。大きなものは喉から臍まで40cmあります。今もケロドイドで残っている傷はヒリヒリと激しく痛みます。ヒリヒリと痛む傷が、キリストの肉体の傷を思い起こさせます。私の傷とイエス様の傷が、肉体を通して相通ずるようになりました。キリストはこの様に体に傷を負う人となって私と共にいて下さるのです。