『ユダヤ人の王 』2021年4月3日マルコ福音書15:6-20

ユダヤ人の王

20214月3日マルコ福音書156-20

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1、祭りの興奮の中で

 15:1。祭りの日ごとに囚人が一人釈放されていた。さて暴動の時に人殺しをして投獄されていた暴徒(反乱者)の中にバラバという男がいた。」という言葉で始まります。祭りとは「ユダヤ教の過ぎ越しの祭り」です。何万人という離散のユダヤ人が国外からエルサレムにやって来ます。エルサレム神殿に羊や牛の犠牲を捧げます。牛や羊の鳴き声、人々の売り買いの声などで騒然としていました。エルサレムは羊や牛の血の匂いで満ちており、人々は興奮状態でした。この時期にローマ総督ピラトが囚人を解放する恩赦の日でもありました。

2,十字架への道

 三つの理由を考えながら十字架の道を進んでみたいと思います。

第一の理由:妬みと十字架

第一回目の質問です。総督ピラトは「15:9、ユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と群衆に問います。それは「15:10、祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみの為であったためだとわかっていた。」と書いています。「妬み」の思いを見抜いています。祭司長たちはイエス様が人気があったので妬みました。妬みは人間の根源にある深い罪です。自己評価が低い人間は妬みます。自分に深い劣等感があり、それを克服できない時に妬みは起こります。パウロは「妬み」を「罪のリストの中の一つ」に挙げています。パウロはフィリピ1:15で「キリストを宣べつたえるのに、ねたみの念と争いの念駆られてするものもいる。」と述べています。教会の中でもあの人よりも自分は力もあり魅力もあることを示したくて、競争心をもって伝道する人もいると見定めています。自分の才能を認めさせたいために、争いの念に駆られて伝道する者もいるとその罪を見抜いています。このような人は自分が罪びとであることにはほぼ気が付くことがありません。祭司長たちは妬みの心をもって群衆を扇動し、キリストを殺害へと導くのです。

第二の理由:ユダヤ人王と十字架

総督ピラトは第二質問をします。「1512。それではユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者をどうしてほしいのか。」

どうやって殺すかを問いかけます。今日の個所では「ユダヤ人の王」が6回使用される。「2:ユダヤ人の王なのか」、「9:あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」、「12:ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者」、「18ユダヤ人の王万歳」、「26罪状書きにはユダヤ人の王と書いてあった。」、「30:他人は救ったが、自分は救えない。メシア・イスラエルの王、今すぐ十字架から降りてみるがいい。そしたら信じよう。」

なぜなら「メシア」とイエスが言っているだけでは十字架刑の死罪にはできません。「イエスが王」であるとは、ローマ皇帝が王であるとは告白しないことを示します。皇帝を王と崇めないことは冒涜になりました。天皇制と同じです。ピラトと群衆はイエス様を十字架につけろと叫びます。

第三の理由:バラバとの交換と熱狂

群衆の姿を見てみましょう。群衆は「15:13十字架につけろ」と叫ぶ。さらに「15:14。いったいどんな悪事を働いたのか」と再び問いかける。群衆は一層激しく「15:14一層激しく、十字架につけろ」と叫びます。群衆の熱狂はイエス様を十字架につける原因です。最後に総督ピラトは「15:15。群衆を満足させようと決意し」そしてバラバを釈放し、イエスを十字架につけるために「兵士に」引き渡す。総督ピラト、祭司長たちも妬みと怒りで群衆を扇動し、熱狂に巻き込みます。当時から総督はエルサレムという田舎のユダヤ人の裁判制度などにはほぼ興味がなかったと言われています。ピラトの裁判も法的手続きよりも「ねたみを利用した総督による殺害事件」です。熱狂に注意が必要です。

3,イエスへの侮辱

  1620節はイエス様への嘲笑と侮蔑が記されています。「15:16、総督官邸の中で」行われる。「15:17、紫の服を着せる」とはローマからユダヤに下って来た国王の衣を着せる。「15:17、茨の冠を被せる」とは長いとげのある木で作った冠(荊冠)を被せる、血が噴き出る、「15:18、敬礼する」は王のように扱いながら嘲笑する。「15:19、葦の棒で頭をたたく」とは「王が持っている笏をまねて葦の棒を持たせる。」「15:19、唾を吐きかける」は馬鹿にすること、誹謗中傷することです。「15:19、膝まずいて拝む」とは「王のようにするように拝んで嘲笑する。」ことです。

しかしここだけではありません。「1465:ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、・・下役たちはイエスを平手で打った」とあります。また「15:29:そこを通りかかった人々は頭を振りながら、イエスをののしって言った。・・15:21:代わる代わるイエスを侮辱して言った」とあります。「1532:一緒に十字架につけられた者たちもイエスをののしった。」とあります。

 イエス様はののしられ、侮辱され、軽蔑され、茨の冠を被らされ、鞭で打たれ、平手で打たれ、こぶしで殴られ、唾を吐かれ、十字架につけられて殺害されます。救い主は英雄ではありません。「無力で、力なく、無能な姿があるのみ」です。人々の罪はそうさせたのです。「私はあなた方の罪の為に身代わりになって死ぬのだ」とか「この死は贖いの死である」とも言いません。パウロはこれを「神の愚かさ:Ⅰコリ1:25」、「神の弱さ(コリ1:25)」と呼びました。または「この十字架の愚かさは神の知恵」とも呼んでいます。また「神の深み(コリ2:10)」とも呼んでいます。マルコの福音理解はパウロの十字架理解と響きあい、呼び合い、和音のように重なり、響き合っています。

4,死と命の交換

  最後に死と命の交換ということについて話したいと思います。

十字架の出来事は「バラバとイエスの様の命の交換劇」とみることも出来ます。なぜなら「罪人バラバ、謀反者バラバ、殺人者バラバは祭司長たちの妬み、総督ピラトの無責任な裁判」とによって命を長らえ救われます。キリストは、十字架の出来事によって無力な死を与えられ、十字架で殺害されます。罪人バラバは救われ、罪なきキリストは殺害されます。罪人の解放が、キリストの死と交換されます。悪人は生かされ、キリストは死にます。これを聖書は「キリストは罪人を身代わりになって罪びとを贖った」と言います。キリストはバラバや民衆や総督の罪の代理となり、キリストは十字架で死にます。聖書はキリストの死を「罪の代理の死」と理解しています。

今日の物語は実にキリストは人の罪の身代わりとなって死んだ出来事を具体的に示した物語なのです。

われわれ人間が人殺しの強盗と同じ罪びと、無責任な官僚としてのピラト、周りの環境にのって無責任に神の子を殺害する群衆と理解する時、私たちはキリストの血の代価、十字架の代価をわが身のこととなります。

 私どもは今日の主の晩餐式を行います。それは私ども人間の罪の身代わりとなったキリストの体と血を受け取る儀式です。キリストは無力、無言、破れはてた姿で、わたしたちの罪の身代わりなったのです。

5,何を記憶として持ち帰るか

今日私どもはこの種の晩餐式に参加して、いったい何を持ち帰ろうとしているのでしょうか。今日のこの晩餐式に参加して、教会の記憶として何を携えて帰るでしょうか。キリストの贖いを感謝をもって持ち帰りたいと思います。あなた自身は何を持ち帰りますか。その記憶の為に心して主の晩餐式に臨みましょう。