2022/03/27『鶏の声を聞くたびに』

鶏の声を聞くたびに

2021年3月27日マルコ福音書14:66-72

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1、イエス様の裁判

今日のマルコ福音書では、イエス様の裁判は2回行われます。1回目は最高法院での裁判です。ユダヤ教の最高組織での裁判です。これは宗教裁判です。最高法院は71名からなり律法学者が一番の権威を持っていました。一番のトップは大祭司カイアファです。彼らによって殺害することを前提として証言を集めたり、言葉尻を捉え、無力なイエス様をあざ笑い、揶揄し、からかい、不利な証言をさせるために人を雇う裁判です。しかし最高法院には死刑の権利はありませんでした。それでローマ法で裁くために総督ピラトの下へ送致されます。

第二回目の裁判です。これは総督ピラトによる裁判・尋問です。総督とはローマ皇帝・官僚制の出先機関であった総督府の最高官僚でした。この裁判は政治裁判です。総督官邸にも兵士が常駐し、イエス様はこの兵士たちに鞭うたれ、裸にされ、十字架を運ばされて、引き回しの刑に処せられます。この裁判は公開でなされ、いわば見せしめのための人民裁判です。十字架刑は公開処刑です。1回目と2回目の裁判の違いは、1461節と152節にあります。

1461節では「大祭司は尋ねた。お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問います。宗教上の問いかけです。「ほむべき方の子」とは「神の姿を現す者」の意味です。「メシア」とは「ヤハウェ」以外にはいません。イエス様は一神教のユダヤ教を冒涜したことになります。大祭司は64節で「諸君は冒涜の言葉を聞いた。」として「神を冒涜した涜神罪」としてイエスを裁きます。

 2回目の裁判はピラトによって次の質問がなされます。152節です。「ピラトがお前はユダヤ人の王なのか」と質問します。ここでは「王とは誰か」が問われます。「王」はローマ皇帝のみです。政治的な質問です。ローマ皇帝一人のみが「王」なのです。皇帝を唯一の神としないので、法に反します。政治裁判・法制度上の裁判であることを意味しています。このようにしてイエス自身も、イエスを神とする者も王とする者も殺害されるのです。

2、ペテロの離反

 ペテロの離反はカイアファによる宗教裁判とピラトによる政治裁判の間に挟まれております。これはマルコの編集です。

ペテロの否みの物語は裁判の物語ではありません。場所は官邸の外であり、官僚が住む官邸内ではありません。またサンヘドリンの中でもありません。ペテロは総督や祭司長から問われたのでもありません。問うのはカヤファやピラトのように名が残っている者でもありません。市井の女の人です。

女の人は「67節:あなたもあのナザレのイエスと一緒にいた。」と言います。さらに2度目に「69節:この人はあの人たちの仲間です。」と指摘されます。さら重ねて3度目に「70節:居合わせた人々は確かにお前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と追い込んでいきます。

ペテロは三度とも否みます。1度目は「68節:あなたが何のことをいっているのか、わたしにはわからないし、見当もつかない。」、2度目は「70:ペテロは再び打ち消した。」3度目は「71節:ペテロは呪いの言葉さえ口にしながら、あなたが言っているそんな人は知らない。と誓い始めた。」とあります。3度とは完全に否定することです。「呪いの言葉」とは「キリスは呪われよ。」ということでしょうか。または「誓いまでした自分が嘘を言って居るなら、自分は呪われよ。」色々推測されます。

 ペテロは本心を語っているのでしょうか。ペテロは嘘を言っているのでしょうか。ペテロは言い訳をしているのでしょうか。「いやいや私は弟子なんてものじゃないですよ。イエスの仲間なんていわれるような立派な者ではないですよ。あの人の足元にも及びません。」と謙遜になって、知らないと言っているのでしょうか。

 理由はどうであれ、いずれにしも「自己防衛、自己保存、責任転嫁、イエス拒否」であることには間違いないでしょう。

3,原罪の告白

この物語は人間の原罪、堕罪の物語です。ペテロは服従したいがそれができない。イエスを知っているが服従しない。それは人間の原罪の姿です。パウロが「ロマ7:17自分のしていることがわからない。自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。そういうことを行っているのは自分の罪(単数形:原罪)です。」と告白してことです。

それは「人は赦すこともできない」し、キリストのみによって許される最も深い「神からの離反=罪」の物語です。単に人間は「嘘をつくから、人のことは批判しないようにしましょう」とか、「人はイエス様を拒む者だから許し合いましょう。やさしくしましょう。」というものではないのです。キリスト教はそんな宗教ではありません。

パウロが「ロマ7:18:善をなそうとする意志はありますが、それを実行できない」という深い嘆きと告白は、ペテロの「14:71、いきなり泣き出した」という罪責観と響き合っています。それは「原罪を持つ人間はキリストの十字架の死によってのみしか救いの道はない。」ということです。

 二つの裁判のわざわざ話をしました。ペテロの否みの物語は「2つの裁判によりも、より本質的な人間の原罪の物語」なのです。それは「人間の法律や道徳では裁くことのできないより深い原罪」の物語です。この「原罪の罪」の告白にはキリストの十字架が密接に結びつくのです。マルコが二つの裁判の間にサンドイッチのように裏切りの話を組み入れているのは、人間の原罪への姿を一層明確にするためでした。

 キリストに服従するとはこの原罪の救いを知ることから始まるのです。

キリストの裁判の物語はペテロの原罪を真ん中にして進んでいくのです。

 あなたは自分がペテロのように原罪を持つ人間であり、「泣くほども裏切り者であること」を自覚しているでしょうか。自分がペテロであることを自覚する時にキリストが弱いものとなれ、十字架で捨てられていったものであることの意味が自覚されてくるのです。

  ベラルーシの大統領のインタヴューをみましたか?彼はイエス様やペテロの反対側にいる人間です。一種のサイコパスだと思いました。人は原罪を認めない時、自己絶対化、他者への軽妙な皮肉、内面化しない倫理の浅さを見せます。

 

 キリストの救いは現代においてもなお深い人間理解を私たちに与えます。キリストの弱さの十字架に感謝をしたいと思います。