2022/03/20『心は燃えていても』

心は燃えていても

2022年3月20日マルコ福音書14:27-42

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1、「神はキリストを打つ」

 今日の個所は不思議な言葉で始まります。それは22節「あなたがたはわたしにつまずく。わたしは羊飼いを打つ。すると羊は散ってしまう。」という言葉です。この言葉はゼカリア13:7の言葉の引用です。それは神様が羊飼つまりイエス・キリストを十字架に付けるという意味です。その時「羊たち」すなわち「弟子たち」は皆な逃亡して逃げ去るという意味です。その時にすべての民が神ご自身に躓くというのです。神様は人を散らすというのです。

ペテロは30節、「皆が躓いても、ほかの弟子が躓いても、自分は躓かない」と信仰の強さを語ります。しかし彼もイエス様を3回知らないと言い逃げ去ってしまいます。弟子たちは全員イエスを見捨てて逃げ去るのです。

聖書はこれを「人々がイエス様に躓いた」と表現します。人間はイエス様に欺き、裏切り、見捨て、逃亡し、離れ去り、諦め、躓いて服従しない者であることを語ります。

私たちは神様を信じればきっといいことが起こると信じています。または良いことが起これば神様は存在すると信じます。私たちの伝道はそうですしょう。信じればきっと神様の恵みがたくさんあります。あなたの悩みも苦しみも解決しますと伝道します。だから良いことを数え、教えよう、伝えようとします。信仰告白をし、バプテスマを受けても良いことが起こらないと、人は教会に来なくなります。しかし聖書は十字架の苦難、弟子の離反、裏切りを示します。神は十字架の愚かさ、苦難、人の裏切りを示します。

このことをパウロは「信じない者にとっては、福音つまり十字架は愚かなもの」と言っている通りです。

2、目を覚ましていなさい。

 3242節はゲッセマネの祈りです。

第一に34節「私は死ぬばかりに悲しい」と言われます。それは弟子たちがイエス様を裏切り、素晴らしい教えも無駄になったように見えたからです。またご自分が苦しみの道、十字架の道を歩んでいかなければならないからです。それはイエス様が「愚痴を言っている」というように解釈することはできません。それ神の使命を生きる者の悲しみを示しています。神の言葉に服従する者は悲しみと無理解と誤解を受けねばなりません。人の裏切りや離反や分裂や対立を経験することです。安易な愛情は通じない人の罪を経験する道です。

第二に弟子たちは祈りなさいと言われても眠っていました。祈りの大切さを彼らは体得していたはずです。しかしそれが十字架への招きを求める祈り、「苦しみの杯を求める祈り」であったなら、人間は祈ることを諦めるでしょう。心を閉ざしてしまいます。十字架の道に真理を見出したくない人は、眠ります。

 第三にイエス様は35節「できることならこの苦しみの時が私から過ぎ去るようにしてください。」36節では「この杯を私から取り除けて下さい。」と祈ります。イエス様は弱音を吐いていると言うべきでしょうか。確かにそのようにも聞こえます。ある人は「イエス様は弱気なっている、弱みを見せないように信仰を持て」と理解するかもしれません。

 ここで「杯」とは単に苦しみを言って居るわけではありません。むしろ「神の怒り」を表現します。旧約聖書では「小羊の血」を杯に入れて捧げました。その理由はこうです。つまり罪を犯した者には必ず何らかの罰が伴います。人間の犯した罪に対して神は必ず罰をもって報います。「罪人」は神の罰を受けます。罰は神の怒りの表現です。小羊は神の怒りを人間に代わって受けるものです。

小羊の血を捧げるとは、人間が本来受けるべき罰を小羊が受けることです。小羊の血は罰の身代わりの血です。小羊は人間の代理の死です。

これを聖書は「身代わりの捧げもの」、罪の罰を代わりに受けることと言っています。イエス様は人間の犯した罪を身代わりになり、その罰を受けるのです。イエス様はこの道を進もうとされているのです。

 そこでイエス様はこう祈ります。36節「父よ、私が願うことではなく、み心に適うことが行われますように。」神のみ心に適うこととは贖いの道を行くこと、つまり罪の罰を身に引き受ける道です。   

十字架の上で殺害され、血を流す道です。しかし十字架は人々にとっては、何もできない弱い自分をさらけ出すこと、愚かさを生きることでありました。十字架が起これば、人々がなんに価値も恵も見いだせない出来事です。パウロが「十字架は信じないものにとっては愚かなものであるが」と言っている通りです。しかしこの弱い道は「身代わりになって罪の罰を受ける道」です。

3,「立て、さあ行こう」

 しかし今日の個所の最後でイエス様は弟子たちを招きます。41節「もうこれでいい。時が来た。人の子は罪びとたちの手に渡される。立て。行こう。見よ。私を裏切る者が来た。」。

眠っている弟子たちに、この言葉が通じるでしょうか。眠りこけている弟子たちにはその意味は理解できませんでした。弟子たちは逃亡し、裏切ります。

「時」はギリシャ語で「カイロス」です。それは神のみ心が起こる「大切な瞬間」を意味します。十字架の孤独な道、贖いの道こそ「神の時」なのです。しかも弟子たちの裏切りが起こる大切な瞬間、それは「人間の原罪が明確になる大切な瞬間」です。それは神の十字架の贖罪の愛が最も明確になる瞬間です。

41節「もうこれでいい。」とイエス様は決別の言葉を語ります。決断の言葉を語ります。イエスは贖いの使命を貫徹していく決心をなさった。イエス様にとって、信仰とは人の罪や眠りこけた無責任な態度に誘惑されないことです。神の十字架の道、贖罪の道を引き受けることです。その道をイエス・キリストは選び取って孤独の道、神のみ心を生きていくのです。

イエス様は私たちに今日勧めます。あなたも、私に倣うように生きようではないか。眠っていないで、立って、わたしと共に十字架の道、贖いの信仰を模範にし、歩いていこうと。「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」と私たちもイエス様と共に贖罪の道を歩んでいきましょう。