2022/03/13『裏切る者と共に』

裏切る者と共に

2022年3月13日マルコ福音書14:10-26

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1、裏切る者たち

  ヨハネ6:66で、イエス様が十字架に付けられる話をすると、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」とあります。12弟子たちもイエスを裏切って逃亡しました。ヨハネ13章ではユダに対して晩餐の席で、「あなたがしようとしていることを今行いなさい。」と言っています。あたかもイエス様は裏切りを知っているように見えます。

人の心は風に揺れる葦の如しです。信仰の裏切りは私たちの教会生活の中でも心に手を当ててみれば誰でも思い至ることでしょう。

2、わたしを裏切ろうとしている

 イエス様は過ぎ越しの食事の席で「はっきり言っておくが、あなた方のうちの一人で、私と食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」と弟子たちの心を見抜いて言われます。弟子たちは心が痛みました。彼らはかわるがわる言い始めます。一人一人言い始めます。「19節:まさかわたしのことでは」と。今は固い決心でイエス様に従う決心をしているが最後は裏切るかも知れない。もしや私では・・・。そんな裏切るなど人聞きの割ることは言わないでくれ、自分たちを信用しないのか?なんて人だ!と弟子たちは不安にたじろいでいるのではいでしょうか。

ユダが裏切ったのはなぜでしょうか。お金欲しさであったようにも見えます。ユダは銀貨30枚でイエス様を律法学者やファリサイ人に売り渡しました。人はお金の為なら多少の忍耐はするものです。お金がなければ教育も、子育ても、家のローンも払えない。家族を犠牲にしてもお金にために働くのです。金はパワーですから。

もう一つの理由は、ユダがイエス様に失望したことです。ユダはイエス様を当時の革命家のように期待していました。イスカリオテとは「シカーリ党」のユダという意味があります。「シカーリ党」とはユダヤ教の最も過激な左派グループで武力闘争も辞さない派閥でした。ユダは革命家としてイエス様に期待を寄せていたのです。しかしイエス様はあまりにも弱々しく、十字架に付けられ敗北の人生を生きようとしていたように見えたのです。イエス様は、「リーダーとしては期待外れの人物」でした。ユダにとって、ユダを裏切ったのは「イエス様自身」でした。悪いのはイエス様です。それで復讐しようとしたのでしょう。期待に添わないものは「早めに切り捨てる」のです。

しかし裏切るユダは首をつって死にます。「裏切り者は自分の欲望の罠にかかる」と箴言に言われていることが成就します。また主の晩餐式で読みますコリ11:29「主のからだをわきまえないで飲み食いする者は自分に裁きを招く」という言葉が成就したのです。

イエス様はなお語ります。「20節:一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。「21節:人の子を裏切るその人は不幸だ。生まれなかったほうが良かった。」イエスは裏切る弟子を知り、裏切る者は誰であるかを見極めています。

  次の2731節をみますと、ペテロの裏切りをイエス様は見抜きます。ペテロは「29節:みんながつまずいても私は躓かない。」と絶対の信仰、絶対の自信を語ります。しかし十字架という敗北の道を行くイエス様は「30節:はっきりいておく。あなたは今日、今夜、鶏が三度なく前に、三度私のことを知らないというだろう」と預言します。ユダもペテロも弟子たち全員も、イエスを裏切ってしまうのです。

裏切りは特別なことではないでしょう。私たちは、期待外れに出会い、裏切る人に出会い、うまく自分に責任が降りかからないように人の責任にしながら、自らも裏切ります。裏切られたらやり返し、裏切りに対して憎しみが増せば殺害に及ぶかもしれません。そのようなことは教会で、家庭で、会社で、職場で、夫婦間で起こります。

イエス様はゲッセマネの園で祈られたとき「32節:私は死ぬほどに悲しい」と言っています。弟子たちに裏切られた悲しみがあったのかもしれません。期待し、愛し、信頼した者に裏切られることは本当につらいことですからです。人を愛しぬいた結末は、裏切りと十字架刑でした。それは私たちにも理解できる悲しみではないでしょうか。

3、体を与え、血を与える

  このような裏切る弟子たちにキリスト・イエスは体と血とを与えるのです。「22節:イエスはパンを取り・・・祈りを唱え・・パンを割き・・与えてこれはわたしの体です。」と告げます。キリスト・イエスは裏切る弟子たちに体を捧げます。「イエスなど知らないと言い去っていく者に」愛と命を捧げます。弟子たちはこれを受け取り、飲みます。受け取りつつ裏切るのです。裏切るを知りつつ命を与えます。

 さらにイエスは「24節:多くの人のために流す血、契約の血です。」と告げます。さらに「25節:神の国である。」と告げます。

裏切る弟子たちとともに神の国でキリストと共に喜びの会食をすることを約束します。「裏切るも者」がキリストの血と肉を与えられ、神の国で再び会食するのです。キリストの裏切るものへ「ただただ希望と愛を与える」のです。裏切る者に愛を注ぎ、命を捧げることは、実に愚かな行為ではないでしょうか。しかしこの愚かさが神の愛なのです。

イエス様は「27節:あなたがたはみな私に躓く。わたしは羊飼いを打つ。すると羊は散ってしまう。」と告げます。イエスの十字架の道に躓き、ちりばらばらになって皆に逃亡してしまうこと告げるのです。イエス様のことを聖書は「躓きの石、妨げの岩」と呼んでいます。裏切る者に命を与え愛する道は愚かな道ではないでしょうか。イエス様は殺され、鞭うたれ、捨てられる、その十字架の道は勝利には程遠い敗北の道です。これに皆躓くのです。しかしこれが「神の愛です」

ロコソラーレが銀メダルを取りました。本橋さんは「神様がいるんだなあということを実感した。」と言いました。勝利と成功には神がともにいますが、十字架に付けられ、殺害され、殺され、捨てられる姿、敗北には、神の勝利を見ることはありません。ですからイエス様は「躓きの石、妨げの岩」となったのです。

4、失うものは何もない。

 オリンピックでロコソラーレが銀メダルでした。多くの人が喜んでいます。吉田知那美選手の笑顔は大変すばらしいと思います。しかし彼女は次のようにインタビューに答えました。彼女は常に勝つことの期待に押しつぶされそうになる。「勝てない私たちには価値がないのかと自問自答し不安にもなる。」しかし宇宙飛行士の野口さんがこんな言葉をくれた。「このオリンピックは失うものは何もない。勝っても負けても得るものしかない。」という言葉です。

 勝ち負けを超越して「そこから学ぶことは勝ち負け以上のことなのだ」ということです。イエス様の十字架も勝ち負け、損得を越えてそこから人の罪、人の裏切り、神の絶対的な捨て身の愛を学ぶことは、とてつもなく大きな価値があるのでないでしょうか。私たちはキリストの十字架の弱さを身に追うものでありたいと思います。