2022/02/28 『神殿といちじくの木』

神殿といちじくの木

2021213  マルコ1112-26

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1、祈りの生活

  カトリックの司祭ヘンリー・ナウエンという人がいます。彼は大学でも教えましたが、人生の最後の段階を「ラルシュ共同体」で、障碍のある人々と共に生活しました。そして静かな生活を送りながら祈りの生活について多くの著作を著しました。その中に「傷ついた癒し人」という本があります。イエス様は傷ついた癒し人である。本当に傷ついた人が本当に傷ついた人の癒し人になることができる。司祭やキリスト者も自分が傷ついていることによって神の慰めをわかちうことができる。それは祈りの世界であると言っています。十字架に付けられ捨てられた経験は決して無駄になることはないのです。

2、イエス様の祈り

  イエス様は行動の人でしたが、また祈る人でもあります。「祈りの家と呼ばれるべきである。あなたがたは強盗の巣にしてしまっている」17節の言葉は聖書の中心思想です。これは2重カッコになっているようにイザヤ書からの引用です。それはともあれ、イザヤ書567節には「わたしは彼らを聖なる山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに、連なることを赦す。彼らが焼き尽くす捧げ物といけにえを捧げるなら、私の祭壇で、私はそれを受け入れる。私の家は、すべての民の祈りの家の喜びに招く」と言います。P1154

  罪あるイスラエルの民であっても神はイスラエルの民を祈りの家の喜びに招きます。神は祈りの家の喜びに住みます。祈りの家の喜びにおいでよと招きます。神ご自身が祈りの家の喜びの世界に、祈りの神殿に招くのです。   

旧約では色々な人が神に祈り、神は祈りに応えます。イザヤには「私はあなたの祈りを聞き、涙を聞いた。」(イザヤ38:5)と語ります。ソロモン王は闘に出る時に神語りかけ「あなたはお住まいである天にいまし、祈りに耳を傾ける方」(列王上8:43)と祈ります。詩編の中にも何度も繰り返し「主よ、私の祈りを聞いて下さい。」と祈りが繰り返されます。ダニエル、ヨナ、ネヘミヤ、ヨブ皆神と語り、祈り求め、神が祈りを聞くかたであることを証ししています。神様は祈りの世界に人間を招き、対話し、神との会話をすることができます。神はご自身が祈るように期待しているのです。

3、イエス様の祈り

 イエス様自身もその神の祈りの姿を映す方でした。5つのパンと2匹の魚を与えられた時「魚を取り、感謝の祈りを唱えました。」(マタイ15:36)、最後の晩餐の時にイエス様は感謝の祈りをなさいました。多忙な生活の中で一人静かな場所に退いて祈ることがイエス様の習慣でした。祈りに拠らなければ悪霊を追い出せないと祈りの大切さを語られました。この様に祈りなさいと「主の祈り」を弟子たちに教えました。

  教会の交わりは神の祈りに取り囲まれた交わりです。神の祈り、イエス様の祈りにわたしたちは取り囲まれています。その祈りの中で祈るのです。私たちの活動も私たちの言葉も私たちの生活全部がイエス様の祈り、神様の祈り、聖霊の祈りの中にあります。  

私たち人間は「神の祈り」という美しい宇宙の中で生きているのです。私たちから神様への方向の祈りではなく、神様からわたしたちの方向への祈りの世界にわたしたちは行き動き、呼吸し、生活しているのです。私たちの今朝の礼拝も神の祈りの園の中で行われています。

4,いちじくの木について

  さて、宮清めの話は、いちじくの木の話に、サンドイッチの様に挟まれています。本来は二つの別々の伝承があって、それをマルコがこの様に編集したのであろうと言われています。

  最初の12節~14節はいちじくの木は葉っぱだけでした。「12節:葉の茂ったイチジクの木」でした。実がありません。実がある時期ではなかったのです。いちじく年に2度実を結ぶそうです。一度は6月イスラエルでは冬の時期。2度目は夏で九月の時期です。イチジクは6月にも9月にも実をつけます。しかし9月の実のほうが小さいそうです。このようなイチジクを「残果」「残るという字に果実の果」と書きます。イエス様はこの残果を期待したのではないかと言われています。しかしこの残果もありませんでした。イエス様ははばかりのイチジクを枯らしてしまうのです。それを弟子たちは「呪う」と言いました。イエス様はこのいちじくに「14節:今から後いつまでもお前から実を食べるものが無いように」と言われます。ひどい言葉のように思えます。実を結ばないものは主が取り除かれる現実を表現しています。わたしは真のブドウの木の譬えの中で「わたしにつながっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」(ヨハネ15:2)と言われるとおりです。

 

しかし、イエス様は「神を信じなさい。」(22節)と語ります。そして「祈り」と関係させます。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすればその通りになる。」(24節)と語ります。「恨み言があるなら赦せ」(25節)と語ります。それが祈りです。

神の祈りを生きることが人間の祈りです。神の愛と正義の祈りは必ず成就します。祈っても祈りは成就しないと判断することは、祈りが神の祈りにまで到達していないことを示します。

 イエス様は「祈り求める者はすべて既に得られたと信じなさい。」(11:24)と語ります。岩波訳では「あなたちが祈り、かつ求める一切のことは、もう受け取ったものと信じよ」と訳しています。今は手に入らなくても既に得ているものと信じるのです。既に得たものとして生きるのです。

 祈りは既に得たものの世界を生きるのです。そのように今日を生きましょう。