20220220『信仰の無い時代に』

信仰の無い時代に

2021213  マルコ8章27-38

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1、心を病む人との出会い

 長い牧師の経験の中で今日の聖書箇所な経験をしました。昔私が働いていた教会の近所に、重い心身の障害を持った家族が住んでおられました。お母さんは60代、息子さんは30代後半でした。お母さんは子どもさんの看病のために病院へ連れていく、精神安定剤を飲ませる、時々子どもさんの職場へも連れていきます。息子さんは時々心が安定せず暴力を振るう、窓ガラスを割る、ナイフや包丁で自分を傷つける。血だらけになって教会に飛び込んでくる。お母さんはその度に逃げ回り、警察に行き、病院に駆け込むなどの事件になりました。息子さんとお母さんは良く教会にお見えになり、楽しく半日を過ごして帰られていました。息子さんも教会にいるときは静かで落ち着いていました。

2、霊に取りつかれた者がいる

  人々はイエス様のところに、「霊につかれた子ども」(17節)を人々が連れてきます。どんな症状だったのか聖書は記します。「18節・物が言えない。地面に引き倒されて泡を吹いて、転びまわり、歯ぎしりをする。」ひきつけの症状でしょうか。マタイ福音書では「てんかん」と言われています。「21節・幼いころからこのような症状があった。」とあります。

 1416節を見ると、弟子たちや律法学者やファリサイ派の人々にも癒しを行うことが出来なかったようです。その理由を議論したいたのでしょう。彼ら人々はいいます「18節。この霊を追い出して下さいと申しましたが、出来ませんでした。」とあります。癒しへの願いや思いや祈りはあっても結果を見ることができません。大変辛い時です。あきらめたいとも思うでしょう。  

祈りと願いを持ちますが、ことはそれほど上手くいかない状況が自分や教会にも家族にもあるように思います。彼らは事態が一向に改善しないのに気づいていたのです。イエス様は嘆きとも嘆息とも怒りとも思える言葉を発します。「19節:ああ何と不信仰な時代なのか。いつまで我慢しなければならいのか。」イエス様の怒り、焦り、不安、叱咤激励のようにも聞こえます。

しかし話は急展開します。イエス様は19節で「わたしのところへ連れて来なさい。」と語ります。20節で人々はイエス様のところへ連れて行きました。わたしはこの場面で、今話した障害を持った息子さんとお母さんのことを思い起します。しかし精神の障害があってもイエス様のところへ連れて行くことが新しい世界の始まりです。

 

3、父親との対話

 2124節は父親との対話です。22節父親は「おできなるならわたしどもを憐れんでください。」と頼みます。この「憐れんで下さい」は「スプラングニゾマイ」で「断腸の思い」というギリシャ語の中で最も強烈な言葉が使われています。「ああ本当にかわいそうだと心底思ってください。」とお願いしているのです。父親には中途半端やいい加減な憐れみはいらないのです。私どもはいい加減な口先だけの、人間のいい加減さを教える憐れみを何度も経験しています。父が求めたのは真実の憐れみでした。さらにイエス様は「22節・おできになるなら、というのかとお𠮟りになった。」この言葉は「可能でなければいいです。」という意味も含みます。「神には出来るのだ」という確信はありません。父親は22節で言います。「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい。」父親は言い直します。父親は自分の「不信仰・イエスへの信頼のなさ」に気づいたのです。率直に告白します。しかも叫んで言うのです。その声は人々全体に聞こえるほどでした。25節では「群衆は走り寄って来た」と言われています。わたしどもは自分の不信仰を安易に告白しません。ボソボソと認める、小声でお前も悪いだろうと言い訳しながら不信仰を認めるのではないでしょうか。父親は深くイエスの言葉に撃たれ、自分の不信仰を告白します。大変な変化です。

4,汚れた霊を追い出す

 2529節までは悪霊を追い出すイエス様の姿が描かれます。25節で「霊をお叱りになり」「この子から出ていけ。二度とこの子の中に入るな」と語ります。26節「すると霊は子どもから出て行った。」とあります。人々は霊に付かれた子どもが死んだかと思いました。しかしイエスは手を取って子どもを起しました。(2627節)「起こすは9:32の「復活する」と同じ単語です。息子はイエス様によって汚れた霊を追い出され復活し、新しい命を得るのです。

 聖書は「穢れた霊が追い出される世界」を描きます。現代人は心理学、精神医学、人格障害等の世界しか知りません。心理分析をして人が人を理解する世界は確かにあります。

しかし人はもっと深い部分を持っています。それは精神医学の分野でもありません。単なる人格分析の世界でもありませ。霊的世界です。

 岩波訳聖書ではこの様な世界を「内奥の意識」(G:シネイデーシス)と訳しています。ペテロ5:5に代表されます。「良心」と訳しています。しかし「良心」よりももっと内奥になる世界を現わす言葉です。人間の善悪の判断よりももっと深くにある「霊の世界」をそう呼んでいいます。ペテロ5:5「シネイデオーセス・アガゼース」を「神によって与えられた良心」「キリストと和解した良心」「神の愛を体験した良心」と言っています。心理よりも一層深い「内奥の赦しの世界」です。神は人間の善悪を越えた聖霊としてわたしたちを生かし、それに生かされる霊的世界です。どんな病気の人であっても存在そのものが喜ばれ、感謝され、肯定され赦される世界です。

その世界は精神の障害や心理的障害を持った人でも感じ、知り、体感することが出来るのです。統合失調症の人でも、精神障害の人でも、重度心身障碍者の方でも感じ、安心することが出来る世界です。神の聖霊の領域は実に喜びと感謝に満ちた世界です。もちろん薬を飲む、病院へ通院する、時には暴れることもあり警察沙汰にもなります。しかしそれでもなお、「赦されて愛されて、喜びある世界」です。

4、祈りの世界へ

  イエス様は語られました。「祈りに拠らなければ決して追い出すことはできない。」(29)と。イエス様は奇跡の出来事を「祈り」と結びつけて語ります。奇跡は祈りの世界の出来事・霊的世界の出来事です。

 ミャンマーのための祈り会が先週で53回を迎えました。しかし一向にミャンマーは良くなりません。ほぼ毎回誰が撃たれて死んだという話ばかりです。祈り会の代表者・リーダー渡辺さゆりさんは「自分は正直疲れている、最近は祈り会を止めようかとも思うほどだ」と語りました。しかし彼女は「この主のものは祈りに拠らなければ決して追い出すことは出来ない」という29節の言葉を引用しました。我々は現実では敗北の連続の様です。しかし祈りに立つ、信仰に立つと「未だ実現に至らない神の世界の中で「祈りと願いの中に」立ち続けることです。それが祈りに生きることです。それは永遠の勝利に立ち続ける忍耐です。神の真理と正義に立ち、イエスの正義と祈りは成就する。その確信に立ち続けることが本当の祈りです。