2022/02/13『メシアと告白しつつも』

メシアと告白しつつも

2021213  マルコ8章27-38

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1、告白する

 先週は「211信教の自由を守る日」の集会が行われました。日本ホーリネス教団は19426月と1943年の4月に牧師・信徒の一斉検挙を受けました。167名が逮捕、拘禁、暴力による取り調べを受けました。その内の七名が獄中死を遂げました。特別高等警察は首の骨を折るほどの暴力を加えます。しかし死亡原因は病気とされました。教会では国賊と呼ばれる風評を恐れ、告別式や葬儀を行いませんでした。殉教した牧師の中には「天皇も人間である限り悔い改めが必要である。」という至極当然の告白を行って暴力を受けて取り調べを受け、死に至りました。

 「天皇は神であり、神聖にして犯すべからず」であり、軍国主義・特別高等警察・密告者などの厳しい統制と強制的な世界の中ありました。どんな神よりも偉大な者が天皇であり、戦争に協力しないものは排除される暴力社会でした。そんな中で主告白に生きることが問われました。

2,色々な告白

 827節です。イエス様は弟子たちに尋ねました。「人々はわたしを何者だと言っているか」当時イエス様のことを色々と告白していました。ある人は「洗礼者ヨハネ」という人もいました。ヘロデ王とヘロデの話をご存知でしょう。洗礼者ヨハネの首を切って殺しました。ある人々はイエス様のことを「首が切られたバプテスマのヨハネが生き返ったのだ」と言っている人々もいました。またイエス様のことを「昔の預言者エリヤだ。」という人もいました。旧約に出て来る預言者エリヤは終わりの時に、また再び地上に再来するという伝説があったからです。この伝説は古くて長いです。エリヤが再来するという伝説は多くの人に信じられていました。他にイエス様を「ラビ(律法の教師)」と呼びました。またある人は「先生(ディダスカロス)」と呼びました。それは人を愛しなさいと教える良き教師だったからでしょう。現代では、貧しい人と生活し共に戦った革命家だという人、殉教までして、自分の信念を貫いた立派な偉人だと尊敬する人もいるでしょう。しかしそれは中途半端な当たらずも遠からずの答えです。正解ではありません。

3,あなたは誰というか?

 イエス様は829節でさらに問われます。「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問い掛けられます。「あなたがた自身はどう告白しているんですか。」あなた自身の告白はどうですか。ペテロは「あなたは、メシアです。」(29節)と答えます。メシアとは「神から油を注がれた救い主・王」のことを言います。ペテロの告白は極めて正しい答えです。イエス様は「良き教師のみ」ではない。イエス様をただ単に立派な宗教家、人の道を説く立派な道徳的人間ではない。「メシア油注がれた救い主」と告白なのです。

 さらにイエス様は31節「自分は多くの苦しみを受ける。祭司長・律法学者・長老たちはわたしを排斥するであろう。そして殺されるであろう。さらに三日の後には復活するであろう」と語ります。十字架の道を語ります。32節「そのことをイエスははっきりとお話になった」のです。自分が排斥され、十字架に付けられ殺される道をいくことを明確に語られたのです。

 しかしペテロはこれを聞いて「イエスをわきへ連れて行って、いさめ始めました。」(32節)。そんな道を行かないでくれ、そんな世に敵対するような行為は慎んでくれ、人に嫌われることまでしないでくれ、もっと平和にやってくれ、律法学者のことも、世間の常識もわきまえてくれという意味でしょう。村八分にならないように平穏にやってくれ。十字架の道など拒否します。イエス様は「サタンよ、引き下がれ、神のことを思わないで、人間のことを思っている。」と厳しくしかります。十字架の道を行かない者は「サタン」なのです。「メシアと告白すること」は神のみ心を十字架に付けられ、服従することと一体であることを語るのです。メシア・救い主は十字架の苦しみを通る者なのです。キリストは単に道徳の教師ではないのです。

4,十字架を負ってわたしに従え

 さらにイエス様は世界で最も有名な言葉を語ります。34節です。「わたしの後に従いたいと思う者は自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失しない。わたしのため、またわたしのために命を失う者はそれを救う。」と語ります。自分を捨てるとは神の言葉に生きることです。イエス様の生き方を自分の生き方にすることです。自分の十字架を負うとは自分の弱さ、弱点をそのまま認めて負うことです。自分の運命をありのままに負う事です。自分の命を救いたいとはイエス様の生き方よりも自分の生き方を先行させることです。そうすると人は本当の命を失うのです。

イエス様のために命を失うなら永遠の命を得て、永遠の希望の中で生きます。それは本来神が我々に与えている本当の命を生きることです。「自分の命」とは「自分の中にある神の永遠の命」のことです。

 聖書は人間中心、自己中心の命を捨てることを命じます。バプテスマがそうです。バプテスマは一度死ぬことです。死の経験です。「自分の命に死んで、神の力に生きる事」がバプテスマ式の意味内容です。主の晩餐式もそうです。キリストの十字架の死を、思い越し、キリストが死に至るまで神に従順であったように自分を捨てて、生きることです。パウロは「キリスト共に死に、キリスト共によみがえり、キリスト共に生きる(キリストとの共死、共生)」ということを語っています。あなたがたは「死ななければ永遠の命を得ないではないか」と語っているとおりです。

 

ヨハネ福音書では「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。しかし死ねば実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)と語っています。実際は種が「死ねば」実を結ぶはずもありません。しかし聖書は「死ねば実を結ぶ」と言います。キリスト共に死ぬ、自分を捨てて神の言葉に服従する時に実を結ぶのです。キリストという言葉に徹底して服従する時にのみ人は実を結ぶのです。