2022/1/30『そこを何とか』

そこを何とか

2021130  マルコ7章24-30節

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1,     そこをなんとかなりませんか。

 わたしたちの先輩の牧師に野口直樹牧師という方がおりました。野口牧師は特攻隊の生き残りの牧師でした。時々自分は生き残り、死にきれなかったことに深い罪責感を持っておられ、自分が軍国少年だったことを悔いておられました。深い虚無感があったかただと思います。

 先生は坊主頭で、正月には紋付き袴で説教しました。尺八を吹く先生でした。正月やクリスマスには「ぶお~~~~~」と尺八で「いつくしみ深き」を吹く先生でした。先生は後年奥様に先だたれ、仙台の吉岡伝道所で一人暮らしをして、伝道しました。

 野口直樹先生はお祈りの先生弟子が「口ぐせ」がありました。それは「神様は大変な教会や世の状況ですが、そこ何とか一つお願いします。」というのが口癖でした。それで「吉岡は会堂が立ち、幼稚園も再開された」のです。

2,フェニキアの女の願い

一人の女性がイエス様に出会いました。この女性はイエス様に「娘から悪霊を追い出してください」と頼みます。母親は「必死の思いで」イエス様にかけより、恥を忍んで、娘を癒して欲しい一心でイエス様に頼み込んだのです。

しかしイエス様の答えは「まず子どもたちに充分食べさせなければならい。子どもたちのパンを取って犬にやってはいけない。」という少しズレた返事なっています。悪霊に取りつかれた娘をいやすという事には直接答えていないのです。どんな意味が含まれているのでしょうか。

イエス様の言葉をよく読んでみたいと思います。「まず子どもたちに食べさせなければならない。」とは当時の格言・ことわざであったと言われています。

「子ども」とは「神の子であるあ選民ユダヤ人」意味します。「パンは神からの恵み」です。「犬」とは「ユダヤ人にとって汚れた動物」です。ですからここでは「犬」とは「異邦人」を示します。ここでは「シロフェニキアの女」「異邦人の汚れた女」を意味します。選民ユダヤ人が受ける神の恵みを安易に異邦人に与えることは出来ないという意味です。

イエス様はまるで異邦人を差別するような言葉を使っているようにも読めます。しかしまた「安易に異邦人には恵は来ないそうだよ。」と「ことわざ」自体を皮肉っているようにも読むことが出来ます。

しかしこの女の人はさらに突っ込んできます。異邦人の女は引き下がりません。イエス様の考えをひっくり返そうとします。「しかし、食卓の下の子犬もパンくずは頂きます。(28)病んだ娘を癒したい母親の機転の利いた問い返しです。つまり「わたしにパンくずでも良いから下さい。」「パンでなくても良いのです。クズで良いのです。パンの万分の一でも良いからその恵みを下さい。」「わたしは汚れたと言われる犬ではない。いやそれ以下の子犬かも知れません。わたしに憐れみを下さるように」という必死の願いです。異邦人の女性はおこぼれでもあずかりたいのです。娘を何とかしたいのです。必死な思いです。そこまでしても子どもを癒したいし、是非そうして欲しいのです。「だめだと言わずにそこを何とかなりませんか」と、開かないように見える扉を、こじ開けようとします。

3、イエス様の自由

 イエス様はこの女の人の願いを無視しません。「それほどいうなら」(29)と感心しました。原語のギリシャ語は「この言葉によって」という意味です。岩波訳で佐藤 研先生は、「そう言われたらかなわない。」と訳しています。イエス様人が脱帽したのです。フェニキアの女の人の機転の効いたことばにイエス様も降参しているのです。

その様な対話が「異邦人の女の娘」に奇跡が起こり、母と娘は励まされ、慰められます。

異邦人であっても良い自由

イエス様はどんな人でしょうか。第一番目に、イエス様は世間の格言に縛られない自由な人でした。異邦人であろうとユダヤ人であろうと人の苦しみには答えていく人でした。どんな人も神様の愛の対象であることを示しました。願い求める者の思いを決まりきった考えや世間の常識の範囲で、解決しません。「世の中の人はみんなこう言っていますから、あきらめて下さい」とは言わない。世間の思いを越えて病を癒します。自分が負けて頑固にならず、なお病を癒す愛の人でした。

自分の考えを無にする自由

第二番目にイエス様は自分の考えも変えることができました。相手を生かし、相手の病のいやし、それが第一でした。自分の宗教的な信念や世間の常識も超えていきます。ユダヤ教の教義からも自由でした。愛し、癒し、健康になることが第一なのです。

それは神ご自身の性格を示しています。神は自己を絶対化することのない自由な方なのです。自分の宗教的な教義すらも捨てることができる自由な方なのです。パウロはイエス様のことを「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、自分を無にして僕の身分になられた」(フィリ2:6)と言っています。イエス様は自分に執着しません。自分の信仰や信念に執着しません。自分に執着せず、人となられたのです。神は愛において、人を救うことにおいて、自由な方なのです。神とイエス様は「自分の信仰を無にする自由」をもつ方なのです。自分を無にして十字架に付き、自分を無にして救いを与える自由な神様なのです。

「パンくず」となったキリスト

 

イエス様は「ご自分を命のパンです。」と言われました。わたしたち異邦人がテーブルから落ちて来るパンくずを頂く時、新しい命、奇跡の命の中に生かされます。イエス様は犬に与えられた「自ら落ちたパンくず」となりました。異邦人の私たちがこのパンくずであるイエス・キリストを食べる時に永遠の命を受けて、死なない命を受けていきます。シリア・フェニキアの女と娘のように新しい命、死という病を癒されるのです。永遠の命を受けるのです。