2022/01/23『5つのパンと2匹の魚』

5つのパンと2匹の魚

2021123  マルコ630-44

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;危機の中にいる人

昨年は児童や生徒の自殺者が全国で400名を超えたそうです。理由は家庭内の夫婦の不和、子ども人がもっている精神的な障害、父母の𠮟責、いじめや進路問題だと言います。小中学生の不登校児は19万人で24人に1人だと言います。不登校の理由は、生活の乱れやいじめなどによると言います。親の収入が不安定、子どもの進路で夫婦仲が悪い、嫁姑の問題で家族が不安定、親の介護のことで、お金や人間関係の問題が深刻になっている。介護疲れ、子どもの教育費や塾やそれにかかる費用。  

私たちの人生は時々砂漠や荒野に住んでいるような感じをもつことがあります。今日のイエス様の物語は場所は「人里離れた場所」(32)で起こりました。この言葉は原語では、「荒涼とした場所」の意味もあります。町から遠く離れ、石と枯草しかない、緑も少ない、水もなく砂漠のような裸の丘陵地のような場所です。これはわたしたちの人間関係、職場関係なのかも知れません。

2,憐れみの心

イエス様は「飼い主のいない羊のような有様を見て、これを見て深く憐れまれた」のです。(34)

「深く憐れまれた。」(34)の原語は「スプラングニゾマイ」です。「はらわたがちぎれる思い」「断腸の思い」「残念無念の思い」。非常に強い悲しみを現す言葉である。

昔中国に武人の桓温(かんおん)とい人がいました。自分の隊を引き連れて蜀という国に向かっておりました。三峡という大渓谷を船で上っている時です。部下が猿の子供を捕まえた。すると母猿が子供を追って、岸辺をひた走るのです。何百里も何百里も追って来ます。わが子を必死で追い求めます。とうとう船の中に跳びこんできました。そしてそのまま息絶えて死んでしまいました。そこで部下がその腹を割いてみると、その母猿の腸はずたずたになっていました。「断腸の思い」とは、母猿の子猿に対する深く激しい愛情を意味するのです。子どもを思い、腸がちぎれてしまうのですから。

神様はそれほどにわたしたちを愛する方なのです。神の愛はそれほどに強いのです。イエス断腸です。

3,自分たちでパンを捧げよ

しかしイエス様は無理だと思う人々に「あなたの手で食物をやりなさい。」(37)と言っています。彼らは自分たちがパンを与えるのは無理だと思っています。イエス様は自分でやりなさいというのです。

実際群衆の様子はどうだったでしょうか。飢えた人々を満足させるには、多額の金額が必要でした。人々は200デナリオンのパンが必要だというのです。1デナリは1日の労働賃金。200日の労働賃金分。現在で言えば6~7ヶ

月分の給料ぐらい。その全額が必要でした。大変な額です。

彼らが調べると、「パンが5個と魚が2匹」しかない。あまりにも足りなすぎる状態。イエス様の命令は不可能である。全員を養うことができないことははっきりしている。希望も望みもなくなった状態です。自分たちには無理だと思える状態。もう諦めるしかない状態。だから弟子たちは言った。「解散しましょう。みんな家に帰らせて自分で食料を買うようにしましょう。」(36)という状況でした。それは「もうあきらめましょう。」という状況でしょう。食べるものが無く飢えてもしかたがないという数でした。

わたしたちも多くのもうだめだという限界を経験しています。教会も大変です。あまり良い話はないように思えます。神様もうだめです。やめましょう。ここらで良しとしましょうと言っているのと同じです。

;祝福する神

 しかしイエス様はささやかな「5つのパンと二匹の魚を持って来るように命じ、それを捧げるように」と命じます。5つのパンと二匹の魚は彼らが持っている最後の食料だったのです。イエス様はその少ない小さな残り物を捧げるように命じるのです。人々は手元にあるわずかなものを捧げます。

イエス様の行為をさらに見てみましょう。

第一にキリストは「キリストは「5つのパンと2匹の魚を取」ります。イエス様はささやかな捧げものを受け取るのです。こんな小さなものでは何の役にも立たないと思えるものを捧げる。キリストはそれを受け取ります。それがどんなにささやかなものであっても、主に捧げる時に事は動き出すのです。

第二にキリストは「天を仰いで賛美の祈りを唱える。」イエス様はこの時、神様との仲介者の役目を果たします。人と神との仲介者として、大祭司として働くのです。キリストの神はささやかな捧げものを用いて下さるのです。 

第三にキリストは「パンを裂いて分配して配らせる」。イエス様は神に捧げたものを再び人々に分けます。イエス様はささやかなものを分かち合うことを喜ばれるのです。

第四にキリストは魚を「裂いて分配して配らせる。」再びイエス様は「弟子たちに配らせ、分配されました。」イエス様は神へ捧げたわずかなものを再び皆に配りました。聖書の神は食べるものを分かち合い、飢えることが無いことを望んでおられるのです。飢餓状態を神ご自身が悲しんでいるのです。ですから飢えることが無いように、人々が働き、共に命を繋ぐことを望んでいるのです。神ご自身が人々の飢えをそのままにして放置しておくことをなさらないのです。

アジアの戦争で多くの兵隊が飢餓でなくなりました。飢餓は悲劇です。

わたしたちの日本でも家庭で食事が取れない子どもたちがたくさんいます。また砂漠化現象、台風や地震などの災害で飢餓が起こります。イエス様は飢餓や食料不足に深く心を痛め、それを克服しようとするのです。

 わたしたちは飢えることが無いようにキリストのみ心を行っていくキリスト者、教会でありたいと祈ります。