2022/01/09 『罪人を招く』

罪人を招く

 202219日マルコ213-17

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Story1:悪人正機説

 浄土真宗の開祖親鸞聖人は「悪人正機」説を唱えました。人間は根本的に悪人」である。衆生(人間)は皆悪人であり、善人はいない。悪人・善人は法を犯すか犯さないか、道徳的にまた倫理的に正しいか正しくないか、という視点に立った善悪ではない。阿弥陀仏の視点から見ると、すべての人間は「悪人」である。そう考えました。

パウロが「人はすべて罪を犯したので、神の栄光を受けられなくなっている」という罪の状況と似ています。阿弥陀如来はこのような「悪人である衆生」を救います。修行によって救いは完成しません。他力本願(阿弥陀仏の救いによる)によるのです。人はどこまで行っても悪人・罪人なのです。

Story2:ガリラヤで

 ガリラヤ湖畔の物語が13節には書かれています。イエス様の伝道は「教会の外での呼びかけ」です。今は教会に来て皆が話を聞いてそこで呼びかけがあって決心してイエス様に従いますが、屋外伝道です。

14節を見ますと「アルファヨの子レビが収税所に座っているのを見かけて、わたしに従って来なさい。」と言われたとあります。レビは「収税所に座っていたとあります。彼は現代で言えば「税務所職員」です。交通税、物品にかかる租税、神殿に納める神殿税などを集める仕事をしていました。イエス様はその職場でレビを招きます。多くの人が行き来していたでしょう。人声や動物たちやおばちゃんやおじちゃんたちがいた日常生活のにぎやかな場所でした。まさに生活の現場でした。生活の中でキリストは呼びかけるのです。日常の生活の中に主の招きは響きます。今日も主はこの現実の中で私たちを招きます。わたしに従って来なさいと。

「私に従って来なさい」「従った」と二度「従う」が使われます。「アコリューセオー」で「同じ道を歩む」という意味があります。イエス様は私と同じ道、同じ生活を歩みなさい、キリストに似た生涯を送りなさいという意味でしょう。イエス様と共に生きる生活を始めるのです。

イエス様と共に生きる人生は何にも代えがたい喜びの人生です。また誰か心を分かち合える友人、家族と共に生きることは本当に幸せなことです。お正月で家族に電話で色々話しました。また色々な方々から年賀状を受け取りました。年賀状は一年に一回ですが、新しい町に移って職場が変わったこと、家族が娘が成人式を迎えるという写真、大事にしている猫が死んだこと、夫婦で登山をした時の思い出の写真、少年少女会だった人が50歳を迎えてたこと、子育てを終えて里親になったこと、昨年末に結婚した時の写真を印刷した年賀状など、それぞれがそれぞれの人生の歩みを知らせてくれました。わたしたちの人生もイエス様のように人を愛して、忍耐して生き抜けたら幸せなことだと思います。

Story:罪人を招くキリスト

 さらに1516節を読んでみましょう。ここではレビの家での出来事が描かれています。「多くの徴税人や罪人もイエスの弟子たちと同席していた。」(15)とあります。徴税人とは税金を集める官吏の事です。「罪人」とはファリサイ派や律法学者が付けた差別用語です。礼拝を守れない人、病気の人、下層階級の人びとのことです。ファリサイ派や律法学者はこの様な人々のことを、律法を守らず、会堂での礼拝にも来ることのない人々と批判しまし「罪人」と呼びました。

16節。律法学者やファリサイ人はイエス様に言います。「どうして徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問いかけます。

 イエス様は次のように語ります。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言います。イエス様は病人を呼びます。自分が健康だ、健全だ、心も体も申し分ないという人を招きません。罪人である私たちを呼んでいます。

会社や企業は試験で合格して一定の力や知識があり、健康な人間関係を形成できる人を呼び集めて、優秀な人材で会社を作ります。それが世の常でしょう。

しかしイエス様は病人を招くのです。正しい人、正義感のある人、品行方正な人、賛美が人より上手い人、明るく元気で信仰深い人、教会の即戦力になりお金がある人、素性が良い人・家柄が良い人を招くのではないのです。病人や罪人を招くのです。

聖書は罪人という言葉をたくさん使います。週報をご覧ください。「十字架に付けられた犯罪人」も法律上の罪人です。イエス様は彼らと同じ姿になりました。「地の民」と呼ばれた当時の最下層の人々、皮なめし職人、大工や漁師は「地の民」と呼ばれ「罪人」でした。また「律法を守らない人々」も「罪人」でした。イエス様や弟子たちも時に「食事の際の律法規定」を破りました。イエス様は「罪人の仲間」と言われます。

パウロは「原罪・堕罪」の中にある人間を罪人と呼びました。これは人間の根源的な罪を示す言葉です。イエス様はこのような人間を救い、命を贖うために、十字架に付けられました。

イエス様は罪人である私たちを招き、堕罪の中にある人間を神様と和解させて下さる方なのです。主は罪人の助け主です。今日も神との和解を成し遂げたイエス・キリストを思い起す主の晩餐式を行います。

 

神はその一人子を神と堕罪した人間とを和解させるために、贖いの小羊としてイエス様を捧げました。そのことに感謝し、主の二度目の来臨を望みつつ、主の血と肉に与かりましょう。