2021/12/5『もはや戦を学ばず』

もはや戦を学ばず

 20211128日ミカ4:1-

Story1

 128日は真珠湾攻撃が始まった日です。75年前にアメリカとの戦争に日本は突入しました。この戦争は無謀な戦争であったことは当時の政治家も民衆も天皇すらも知っていることでした。しかし誰も敗北に至るであろうこと、敗北に至る漠然とした不安を公に語る者はありませんでした。なぜなら軍国主義という、暴力・強制の恐怖政治の中にいたからです。言論の自由は軍という暴力で、圧殺される時代でした。

 預言者ミカの生きた時代はまさにこのような時代でした。ミカはユダ王国の預言者です。アッシリア、エジプト、バビロンア等の「大帝国」が迫ってくる中で人々は軍事力の増強に努めました。この時代ユダ王国の王は次々と入れ替わり政治上不安定な時期でした。ミカはモレシェトの生まれです。モレシェトは繰り返した戦乱の地となった場所で、戦争の悲劇が繰り返された場所だからです。

モレシェトは日本で言えば沖縄のような場所です。ミカは戦乱の歴史を持つ町で生まれ育ちました。そのような中で、彼は主の幻を与えられて国の敗北を告げた預言者です。国家に立ち向かい神の言葉を語ることは命を懸けた勇気ある戦いです。この生き方は今日の私たちにも求められているキリスト者の使命です。

Story2:終わりの日の2つの意味

「終わりの日に:ベアハリート・ハッヤーミーム」(1)「その日に:「バッヨーム・ハフー」(4)とあります。この日は特別な日です。「終わりの日」とは2つの意味があります。

1つは「ユダ王国がバビロン捕囚となり、完全にエルサレムが破壊される日」です。300年以上に渡る王国支配の中で国家に対して国の滅亡を預言することは困難な使命でした。

ミカ書13章の中で彼は、王・政治家の腐敗、国家体制の悪質な体質、そしてヤーウェの思いから遠く離れていることを批判しました。神は平和を求めていたからです。

2つ目は「この王国の終わりは神の裁きの日」であることです。この日は将来やって来ます。これから来る日です。まさに来ようとしている日です。戦乱が続く希望の無いバビロン捕囚の中で、やがて到来する「主の日、来臨」が起こることを預言します。

 それでは一体どんな終末の時が来ると言うのでしょうか。ミカの言葉を聞いてみましょう。不思議なことにこの日は単なる滅亡の日ではなく、神の栄光の到来の日、喜びの「終わりの到来」として語られます。詳しく見てみましょう。私たちは「日曜日を主の日」と呼びます。この主の日には「終末の主の審判の日」という意味が含まれます。礼拝をするとは主の裁きの前に立つことを意味します。教会は主の裁きの行われる終末的な場所です。

Story3:神の山に登ろう

 主の日のことを一層深く語ります。第一に「主の神殿の山が山々のかしらとして立ち、もろもろの民がこの高い峰に上って来る。」(12のです。「主の神殿の山」は、すべての国民を引き寄せます。すべての人が求めてやって来る。目標として目指して来るのです。」すべての人々が慕い求めて来る。

そして彼らは言います。「主の山に登ろう。ヤコブの家に行こう。主は道を示される。」と言うのです。

「主の山」とは、主の教えと栄光と輝きとヘセッドが満ちる場所です。そこでは、主の教えが与えられる場所です。神の栄光の中で神と共にあり、神の言葉を受ける場所です。神と共に栄光に与かる場所です。

わたしたちが朝な夕なに築く祈りの祭壇もシオンの山です。湘南台教会は主の山です。主と出会い、主に教えられる場所・湘南台教会も主の山なのです。主の神殿の中に今居るのです。

この今朝の礼拝も我々は、シオンの高嶺にいるのです。キング牧師の有名な説教があります。「わたしは今、山の頂上に居る。そして神の栄光を拝している。Now, I am a moutain top!

Halleluyah!」と説教しました。これが最後の説教となりました。山の上に来たりて神の栄光を拝するのだと語りました。わたしたちは神のみ座に日々神の山に登ってきました。神を拝する喜びを受ける場所、湘南台教会に来ました。さらに終末の時にも神の栄光の御坐の到来を期待できるのです。聖書的な終わりは神と共に栄光のみ座に就くという喜びの終わりなのです。人生を喜んで生きましょう。

Story3:もはや戦うことを学ばず

 さらに御坐の到来の時には完全な平和が来るのです。聖書は語ります。「主は多くの民の争いを裁き、遥か遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(3節)。と語ります。

48節も読みますと平和な世界、主ご自身の主権が回復した争いのない穏やかな平和な世界が成就することを示しています。

聖書の神の本質は平和です。神の国は平和と穏やかさです。剣は打ち直して鋤にする(一度元の鉄に戻して、鋤に作り変える)。槍は打ち直して鎌とする(元の鉄状態に戻して、鎌に作り替える)のです。剣や槍という武器は無くなって農業用の道具になるのです。そのように平和な世界に変化するのです。もはや戦うこと、争うこと、喧嘩すること、いがみあうこと、は無くなるのです。

今日の個所はアマンダ・ゴーマンさんがバイデン大統領の就任式で読まれました。深い感動を呼びました。20代、アフリカン・アメリカンの女性です。大変高い評価を受けました。少し長いですが、その詩を紹介しましょう。

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「わたしたちがのぼる丘」

1日が始まる夜明けに人は自問する。

この終わりのない闇の中で、どこに光がみつかるのだろうと。・・・・・・・

我々が負う喪失、我々が波に攫(さら)われながら渡らねばならぬ海。

我々はあの日、野獣に立ち向かった。

沈黙が常に平和の証とは限らぬこと、規範と概念の正規が正義であるとは限らぬことを知った。

それでもその夜明けは、目覚めの前に訪れていた。どうにかしてやり遂げていたのだ。どうにかして切り抜け、そして目の当たりにした。壊れたわけではなく、未完なだけだった国の姿を。

奴隷の子孫で、シングルマザーに育てられた痩せっぽっちの黒人の少女が、いつか大統領になることを夢みて、そして今は新たな大統領の誕生の場で自作の詩を朗読することが出来る国と時代を我々は受け継いだ。

そう、我々は無欠からもほど遠く、無垢からもほど遠い。でも・・・・我々は、私たちの「間にあるもの」ではなく、私たちの「前にあるもの」に目を向ける。未来を最優先とするならば、まず、互いの相違点など脇に置かなければならないことを我々は知っている。だから、分断はここで終わりだ。

戦いを放棄すれば、互いに抱擁できる。誰かを傷害せず、互いが調和できる道を見つけるのだ。・・・・・・・

聖書は「彼らは皆そのぶどうの木の下に座し、そのいちじくの木の下にいる。彼らを恐れさせる者はない」と説いてる。(ミカ書4章第4節。)

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  ちょうどアドベントの時期を迎えています。まさにキリストの喜びが永遠の神の側からやって来るのです。キリストの誕生、救い主の誕生を、終末を待つように、喜びの電車がプラットホームに入って来るように楽しみにして待つのです。わたしたちの救い主はもうそこまで来ておられるのです。あなたの身近な所まで来ているのです。楽しいアドベンチャー(希望の冒険)の時なのです。