2011/11/21『主が望まれるのは』

主が望まれるのは

 20211121日詩編147編1~20

Story1:家族の崩壊の中で

新垣勉さんが有名になって沖縄でコンサートを開きました。お母さんもコンサートに来るという約束で、花束を用意しました。コンサートの最後にお母さんを舞台に呼んで、感謝の花束を渡すつもりでした。最後にお母さんへの感謝を表す手順になっていました。

お母さんも確かにコンサートに来ておられ、誰も気づかず、ひっそりと会場に座っておられました。しかしコンサートの途中でお母さんは静かに席を立ち、会場から出て行かれました。誰も振りまきません。新垣さんは花束をもってお母さんを舞台に呼ぼうとしましたが、お母さんに花束を渡すことは出来ずに、彼は呆然と舞台に立っていました。わたしは二人の気持ちを考えるとき涙が出ました。二人とも本当に辛かっただろうと思います。そんな悲しみを体験しながら最後の曲は「さとうきび畑」を歌いました。平和を求める歌です。わたしは彼の心からの平和を願う祈りの賛美歌だと思いました。崩れ去った親子関係は修復できたのでしょうか。

Story3:神様の恩寵と恵み

この詩篇で際立っていることは多くの神様の恩寵と恵みが記されています。すべて上げてみます。「エルサレムを再建する」「人々を集める」(2)、「人々を癒す。傷を包む」(3)、「数を定め、名を与える」(4)、「貧しい人々を励ます。逆らう者を地に倒す」(6)、「雨を備え、草を生えさせ、食べ物を与える」(9)、「城門のかんぬきを堅固にする。中に住む子らを祝福する」(13)、「国境に平和を置き、最良の麦に飽かせる。」(14)等です。

  この詩篇の背景はバビロン捕囚という崩壊と破壊の経験です。親子関係や上司や部下との関係が崩壊するようにイスラエル民は喪失の経験をします。

紀元6世紀以降イスラエルとユダは崩壊し国を失いました。エルサレムは火を放たれて焼け落ちました。人々は奴隷としてバビロンへ引かれていきました。希望や礼拝は崩されました。これはイスラエルの民族の大きな危機でした。しかし70年の捕囚の時期を過ぎてペルシャ王キュロスによってバビロンは滅ぼされます。ペルシャ王キュロスを聖書は「キリスト・油注がれた者」と呼びました。救い主の姿をペルシャの王に重ねます。やがてエズラとネヘミヤを中心としてエルサレムは再建され、帰国したイエスラエルの民は涙を流して神殿で礼拝を捧げます。このバビロン捕囚の物語は旧約聖書の大切な原点です。今日の喜びの背景はイスラエルの民の70年におよぶ苦難の経験があります。エルサレムを2節の「再建する」「人々を集める」の意味には、崩れ去った神殿の記憶が残っているのです。

Story3:神の言葉について

 喜びの源は何でしょうか。その根拠を詩篇は書いています。一言で言えば「神の言葉」です。15節「主は仰せを地に遣わされる。」、同じ15節に「み言葉は速やかに走る。」、19節に「主はヤコブにみ言葉を、イスラエルに掟と裁きを告げられる。」とあります。

 神は言葉を使います、神の言葉を語りかけます。神は言葉を発します。神の言葉はわたしたちの間に、教会や人間関係に響き渡り、駆け巡り、この空間に飛び回るのです。神の言葉は羽を広げた天使のように、駆け巡ります。神は言葉で私たちと関係を結びます。神は言葉で自然を創造します。神は言葉で慰めを人に与えます。神は砕かれた心の人を癒します。神は言葉で傷を包みます。神は言葉で苦しみから解放します。神は言葉で行く手を照らします。イエスキリストは神の言葉です。神の言葉を見える姿で現したのがイエス・キリストです。

神言葉と神の空間を「畏れるようにと」語ります。「恐れる」はヘブル語で「ヤーレー」と言う言葉です。「畏れる」(畏敬、畏怖)とは、かしこむ、恐縮することです。ある学者は次のように言っていました。「人にはまったく不条理に思える真理を信じることです。すなわち、神への全幅的信仰です。これが人生の知識、知恵の初めであり、基本であるのです。」と。

Story2:主を賛美する

 147編では神様を賛美するようにと勧めています。駆け巡る神の言葉に触れて癒しを受けて賛美するのです。もし神の言葉に触れることなく賛美するのであれば、ただの自分で自分を喜び、慰めるにすぎません。それは神なしの賛美、神の言葉なしの自己満足です。

「神を誉め歌う(ザーマル・エロヒーム)のはいかに喜ばしく」(1節)、大切なのは「神を誉め歌う」です。「神への賛美(テッヒラー)はいかに麗しく快いことか。」(1節)、大切なのは神への賛美です。「ささげものを捧げて主に歌え(アーナー)」(7節)、大切なのは「主に歌え」です。「わたしたちの神に褒め歌を歌え(ザーマル)」(7節)、大切なのは「私たちの神に」です。「主をほめたたえよ(シャーバッハ)」(12節)、大切なのは「主をほめたたえよ」です。「神を賛美せよ(ハーラル)」(12節)。大切なのは「主をほめる」です。賛美は常に「神」を意識することです。あなたの心ではなく、あなたの姿ではなく、「神へ」です。神の言葉に揺り動かされ、神の言葉に触れて、神ご自身に賛美を捧げるのです。

イエス様が賛美なさったという記録があると思いますか?イエス様が賛美をなさった記事がります。それはマタイ2620節、並行記事でマルコ1426節です。最後の晩餐をなさった後の記録です。「これは多くの罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくがわたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ブドウの木から作ったものを飲むことは決してあるまい。一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山に出かけた。」(マタイ26章から)イエス様も歌いました。どんな声だったでしょう。低い声、高い声、綺麗な声?テナー?ベース?どんな心だったでしょう。どんな思いで弟子たちは一緒だったでしょうか。学者たちは詩篇を歌っただろうと考えています。礼拝で歌う歌はほぼ詩篇だったからです。

 わたしたちは今週も様々な試練に出会うでしょう。私たちは私たちに与えれた独自の、一人だけの、誰も負ってはくれない神様が与えた下さった独特の十字架を負わなければなりません。神様はあなたにしか負うことのできない十字架を負わされると思います。坂元に坂元の使命と十字架があるのです。しかしこの十字架の中で、主を賛美するものでありたいと思います。

 

イエス様は独自の十字架を負いました。そして主を賛美しながら十字架の道を歩まれたのです。このようなキリスト・イエスは私たちの苦しみと十字架を一層深くご存知であり、私たちの賛美する思いをご存知です。主は共にまさに共に賛美しておられるのです。