2011.11/14『都に上る歌』

都に上る歌

 202111月7日詩編131編1~3

Story1:巡礼としての人生

120編から134編までは「巡礼の歌」です。それは神の都を目指して巡礼する旅の詩編です。日本でも四国巡礼の旅、88ヶ所巡りがあります。菅笠をかぶり、杖を持ち、白装束、鈴をチリン、チリンと鳴らしながら長旅を続けます。家族を失った悲しみ、人生の十敗、後悔の思いや苦しみを心に秘めながら旅をします。

キリスト教のエルサレム巡礼の旅は4世紀に頃から盛んになったのですが、人は神様の慰めと励ましと愛を求めて、旅を続けています。

わたしたちの礼拝も、日曜日から日曜日への巡礼の旅だと思います。また私たちの人生は、「神の都エルサレムを目指して歩く、巡礼の旅」です。この人生の巡礼の旅は真に良き旅、麗しき旅です。良く「同行二人」同じ道を二人で進むという意味ですが、皆さんの巡礼の旅はいかがでしょうか?

Story2:驕ることなく

 今日の詩編は「わたしの心は驕っていない。目は高くを見ていない。大きすぎること、及ばぬ驚くべきことを追い求めない。」(1節)と告白しています。

 これはビジョンや理想がないとか、がないということでしょうか。そうではありません。人生の目的がないということでしょうか。決してそうでありません。そうではなく、自分は傲慢にならないということです。成功してもしなくても神の前に謙遜であるということです。

思い通りにならないと上から目線、驕りになり、世間の評価に神を利用します。時には目を高く上げすぎ、及ばぬことを追い求める結果になり、焦ります。また自分が傲慢になっていることに気づくのは大変修練のいることです。自分を顧みる訓練や自分を低くしてもなお「折れない自分」を持っていないと、上から目線、他者非難、責任や失敗を他者に押し付けます。あそこがダメ、ここがダメと言いと言い始めます。

キリストは十字架の死に至るまで謙遜であられた、自分が殺害されるまでに傲慢になることはありませんでした。持ち、歩いて巡ります。皆さんはヘンリー・ナウエンをご存じでしょうか。

「『朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。』(マルコ135)という出来事が記されています。多くの人々の問題に、深くかかわっていく際にイエス様は1つの秘訣を持っておられました。それは「ひとり退くこと、御父との親しい交わりに身を浸すこと」でした。一人になること、一人でいること、閑静な場所に身を置くこと、人から離れることのできる場所で自分を顧み、成功しても失敗しても傲慢にならない謙遜の道を求めました。

Story3:魂を静める

2節では「わたしは魂を沈黙させる。わたしの魂を母の胸にいる幼子のようにする。」と語ります。

聖書は「わたしは魂を沈黙させる。」と語ります。まずの神の前に沈黙する、しゃべらない、話し出さない、魂を静かに沈黙させます。わたしが語りだすのではなく、神が語るのを静かに待ちます。神が語るまで沈黙して待つのです。心のざわつき、怒り、不安を主に捧げるには長い修練が必要で、容易にできることはありません。

さらに「母親の胸で乳飲み子が安心しているように安らかな思いでいるようにする」と聖書は勧めます。子どもは母の懐に抱かれている時が一番平安な時です。抱いているお母さんも、それを見守るお父さんや家族も安心します。わたしたちは神の懐に居るように安心し、沈黙します。荒い言葉、激しい怒り、焦った心を持ちません。

魂はヘブル語でネフェシュです。心の一番奥にある魂です。聖書では「ネフェシュ」は神の霊によって養われ、神の霊によって耕され、神の聖霊によって慰められて成長します。最も大切な人間の魂のありようを決定する部分です。この大切な魂を沈黙させると言っています。沈黙させるはヘブル語で「シャワー」です。その意味はやわらげる、柔軟にする、静める、平穏にするなどに意味があります。神の聖霊に養われるために、ネフェシュを柔軟にして神の霊を受け入れやすくする、神の聖霊に養われるために心を静めて平穏にするのです。心がイライラしてささくれ立っていませんせんか、心が悲しみや痛みや怒りや後悔で、荒波のように波立っていませんか?その波を穏やかにして、そこから信仰が始まるのです。

Story4:主を待ち望む

 3節では「主を待ち望め。」と語っています。1305-6節にも出てきます。「わたしは主に望みを置き、わたしの魂は望みをおき、み言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして。見張りが朝を待つにもまして。」

 ここでは「ヤーハル」と言うヘブル語が使われています。それは「期待して待つ」と言う意味があります。英語では「プット・マイ・ホープ」と訳されています。わたしのホープを神様に置くという意味です。

 わたしたちはイライラして待つこともあります。「早く来ないかなあ!あいつはいつも遅れて来るんだ!と待つこともあります。

でもここではワクワクしてしながら待つのです。来るぞ、来るぞ、今来るぞ、うれしいなあアと思いながら待つのです。

 神の言葉、神の語りかけは、沈黙の中に、喜びをもって、神の側からやってくるのです。これは確実なことです。聖書は待ち望むことを何度も繰り返し語っています。「待ち望め主を。雄々しくあれ、まことに主は賛美されるべき方、ハレルヤ」とい賛美歌を思い起します。

 

 私たちの信仰生活は「天のエルサレム:神の都への巡礼の旅」です。あなたは楽しく巡礼の旅を続けていますか。あなたの神様の愛や言葉をワクワクしながら待ちましょう。神様の言葉は常に勇気づけ、励まし、希望を持たせてくださる言葉です。わたしたちはどんな待ち方をしているでしょうか。主は永遠に喜びをもって到来する神です。ワクワクしながら待ちなさい。共に主の言葉にワクワクしながら教会生活を送りましょう。