希望に生きる
2021年10月31日詩編92:1―16
Story1:慈しみ深き(431番)
「いつくしみふかき、ともなるイエスは、罪とが愁いを・・・」はみんなが知っている讃美歌です。作詞者のスクライヴェンは、普通の家庭に生まれました。両親の祈りを心に深く止めて神の様のために働くために神学校に行きました。卒業して牧師として働き始めました。やがて一人の女性と出会い、結婚の約束をしました。結婚式の前日、準備のために教会に行こうとしていました。スクライヴェンがバン川という川を渡りました。しかしそのあと、婚約者がバン川という名の川を、馬車で渡ろうとして、流されて溺れて死んでしまいました。スクライヴェンは川向うでその馬車を待っていて、目の前で流されたのです。彼は深く悲しみ、絶望のどん底に落ち込みました。神様はひどいことをすると思いました。しかしその時の悲しみは一生心の傷になりました。後になって讃美歌にしました。そしてこの曲を病気で苦しんでいたお母さんに捧げたのです。「慈しみ深く、優しいイエス様は、私たちの弱さや苦しみを優しく包んでくだいます」という、痛みと悲しみを知ったスクライヴェンの心優しい讃美歌です。
Story2:いかに楽しきことか
92編2~4節を読んでみましょう。「いかに楽しいことでしょう。主に感謝を捧げることは。いと高き神よ、皆を誉め歌い、朝ごとに、あなたの慈しみを夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは。十弦の琴に合わせ、琴の調べに合わせて。」
詩篇の作者は主に感謝を捧げています。主への感謝で心が満たされていたのです。そしてその感謝を賛美したのです。歌は十弦の琴(アソール)、竪琴(ネーベル)という2種類の琴(キンノール)に合わせて歌ったのです。
わたしはバプテスマを受けてすぐに、教会の青年会でギターで歌うようになりました。ボブ・ディランやピーターポール&マリー、ジョン・バエズ、キングストン・トリオなどフォークソングが盛んな頃でした。楽器に合わせて歌うことは本当に楽しいことです。わたしも教会で初めてギターで歌うようになりました。いつもそばに楽器があります。悲しい時も、孤独な時も、楽しい時も、うれしい時も、ギターと一緒に賛美することができます。本当に幸せなことです。5節「主よ、あなたの御業はいかに大きく、御計らいはいかに深いことでしょう。」とあります。わたしたちの信仰の浅さ深さ、信仰力があるから賛美するのではないのです。まず賛美があって信仰が来ます。まず御手の業を喜ぶことがあって、あなたの信仰があります。まずすべてを喜んでしまうことからです。
Story3:永遠に滅ぼされる
92編8~12節を読みます。8節「神に逆らう者が野の草のように茂っても、悪を行う者が花を咲かせても永遠に滅びる。10節「あなたに敵対する者は必ず滅び、悪を行う者は皆必ず散らされていく。」12節「私を陥れようとする者をこの目で見、悪人が私に逆らって立つのをこの耳で聞いても。」
「神に逆らうもの」「悪を行う者」「あなたに敵対する者」「私を陥れようとする者」「悪人」は必ず滅びる。「永遠に滅ぼされる」「散らされる」とあります。復讐するのは人ではなく神ご自身です。私たちは滅びればいいと言うかも知れません。しかし復讐するは神ご自身です。私たちは滅ぼすことを自分の手から神の手に委ねることができます。それによって完全な平安を与えられます。悪人にイラ立つことは不必要です。「滅ぼす」行為は正義立場にある人間が出来る事ではありません。「滅ぼす」のは神ご自身がなさいます。人には滅ぼし、消滅させる権利はないのです。しかし主がなさいます。神様が滅ぼされますから、無駄な抵抗をしたり、いらだったりすることはありません。「あんなことしてら滅びるなあ」と思う人がいますが、神様に任せたら良いと思います。
Story4:白髪になっても
92編13~16節を読みましょう。「神に従う人は、なつめやしのように茂り、レバノン杉のようにそびえます。主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし、述べ伝えるでしょう。わたしの岩と頼む主は正しい方、御もとには不正がないと」
ナツメヤシはオアシスの岸辺で、高くそびえます。レバンノン杉はレバノン山脈に育つ、豊かな緑をたたえた大木になります。「神の油そそぎ」を受けて、豊かにされた人は、主の家で育ちます。「神の庭で大きく育つ」のです。
わたしの実家は鹿児島の大隅半島です。ほとんど過疎地なので観光地ではありません。しかしたくさんの楠があります。地元の人しか知りません。「志布志の大楠」「塚崎の大楠」「旗山神社の大楠」「田崎の大楠」「小田の大楠」「塩入り橋の大楠(南蛮船係留の大楠)」等です。樹齢が1200年位あります。高さは25m~30m位です。根周りは20m位あります。大人10人くらいで手をつなぐとぐるっと囲めます。
楠はわたしたちに話しかけてきます。時間の流れの雄大さ、神様の雄大さを思わせてくれます。長い人生もホンの一瞬であることを思います。鎌倉にもイチョウの木がありますが、あの木の5倍位あります。
最後に15節では「白髪になってもなお実を結ぶ、いきいきとさせる」とあります。
イザヤ書46章4節には「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負っていこう。わたしはあなたたちかを造った。わたしが担い、背負って救い出す。」とあります。
神様は白髪となるまで、白髪となった今も、死ぬまで、わたしたちを担ってくださり、運んでくださるのです。
わたしは入院中に「何度も持ち運ばれ」ました。ICUです。個室です。3人部屋です。CTとりますから車いすで行きます。ナーステーションの前の部屋に移ります。手術終わりました部屋に戻ります。ベッドごと移動します。またストレッチャーに移って移動します。看護師さんは結構手早く、スピードがあります。以外とストレッチャーも早いです。時々この聖句を思い起しました。「白髪となるまで持ち運ぶ」です。神様が一緒にいて持ち運んでくださると思うと安心しました。高齢で「入院するようなことになっても、神様はわたしを持ち運んでくださるとは、なんと幸福なことでしょう。主は元気いっぱいな壮年や青年だけではなく、白髪のものとも一緒にいてくださるのです。