2021.10/17 『すべては主のもの』

すべては主のもの

詩編24編1~6

Story1: すべて手放す

 入院して色々考えさせられました。私の体はただ心臓がドクドクと動いているだけの体になりました。何があったのかまったく意識がないのです。心も精神も思想も考えるということも無くなりました。まったく物体になったのです。私は死んでいたのでしょうか。生きていたのでしょうか。「生きている」にしても肉体のみです。

 手術中私は口で神をほめたたえることはできませんでした。しかし「心臓がドクドクと動いていることという物体の音が」神をほめたたえていたのだと考えました。心臓の音だけが賛美歌を歌うのです。これは素晴らしいことです。物体が讃美歌を行うのです。悔い改めや回心が神を賛美するだけではないのです。肉体だけという物質が神讃美をするのです。自分を手放して、存在だけが讃美歌を歌います。

Story2:世界は主のもの

 聖書は「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは主のもの」(1)と語ります。「世間」は主のものです。神様は創造主です。    

最近流行語に「親ガチャ」という言葉があります。ガチャガチャという機械があります。ゲームセンターとか湘南台駅にも置いてあります。400円とか300円入れる。ガチャガチャと回すと黄とか、赤とか、透明とかプラスチックのボールが出てくる。中にフィギュア、ミカンのキーホルダー、ガムも入ってる・・などが出てくる。

その機械から何が出て来るかは、人は選べない。この機会からきた言葉です。若い人が使う時には、「自分は親を選べない。」「子どもは親を選べない」「バカ親から生まれて来たから、自分が頭が悪い。だからこんなつまらない人生なのもしょうがない。生まれて来た親が悪かった。」という意味で使われます。自分の人生は運が悪かった、しょうがない人生だ。アホ親から生まれて来たから、俺もアホな人生しか生きられなし。若者たちの悲痛な叫ぶ声が聞こえます。

世間は体力の優劣で人を価値付けます。あなたも大リーガー大谷選手を目指そう。成績の優劣で存在価値を決めます。有名校に入ろう。人は経済的な貧富で人を決めます。少しでもお金持ちになりなさい。人は会社の格付けで人を決めます。人は地位の上下で人を価値づけます。部長止まりで重役にはなれない。時に人は民族的な優劣で価値を決めます。日本人は○○人より優れている。人は人間の価値という檻の中で過ごしています。

 しかし神の創造は体力、成績、学歴、経済力、職業、社会への貢献度と言った人間の檻から人を解き放ちます。「存在そのもの」の大切さを言います。人は神によって「創造された」というその「存在」という原点、が尊いのです。

Story3:聖所に立つ人

   創造主について述べた後に詩編の作者は「どのような人が主の山に登るか」(3)と問いかけます。

山はシオンの山、エルサレム神殿。「聖所」は祭司・大祭司・時には巡礼者が神の前に出て、神を礼拝する聖なる場所。教会・湘南台教会の礼拝堂です。

「手」は「行い」、「心は」は「思い」を現します。「潔白で清い」とは「信仰生活が倫理的に完ぺきである」と言ことではない。「神に出会うとために行いも思いも襟を正して、精一杯悔い改めと誠実を抱いて神の前に進み出る」ということです。

 私は高校に入って初めて、「人生の師」を求めるようになりました。そして親から経済的に、精神的に独立、自立することを考え始めました。しかし精神的な支柱はなかなか見つかりませんでした。鹿屋という田舎の町に、小さな本屋さんがあって、岩波文庫で読み始めました。でも何か救いの無さを感じて虚無的な日々を暮らしました。暗い高校生でした。担任のS先生が坂元は本が好きなら私が推薦する学校に推薦状を書くと言われました。Sが好きでなかったので断りました。断って良かったと思います。先生の推薦状で入っていたら自殺しただろうと思っています。一年浪人後キリスト教学というクラスがあって、シート先生に出会いました。やがて教会に行くようになりました。教会に行って驚いたのは、自分が求道者と呼ばれたことです。別に修行者でも、求道者でもない、かってに呼ぶなと思いました。迷惑な話でした。しかし今思えば、「主の御顔を求める人生」が始まったのだと思います。全く何も知らいなまま神学部に入りました。この体験は私の信仰を変える大きな変化でした。一線を越えた思いです。

Story4:頭を上げよ

 最後の部分は「城門よ、頭を上げよ

栄光に輝く主が来られる。万軍の主、主こそ栄光に輝く王」と繰り返されます。

誰が来るのでしょうか?7節「栄光に輝く王」8節「栄光に輝く王」9節「栄光に輝く王」10節「栄光に輝く王」と2回出てきます。栄光に輝く王が到来します。

ですから城門を開けよと言います。7節「とこしえの門よ、身を起こせ」、9節「城門よ、頭を上げよ。とこしえの門よ、身を起こせ」と勧めます。今もエスラエル神殿の黄金門があります。ここから主が入ると言われています。主が来られるので「ゲイト」を広く開けよと言うのです。

聖書はうなだれていないで、身を起こしなさいと勧めます。肩を上げなさいと言います。背中を伸ばしてしっかり主の顔を見上げなさいと語っています。

 モーセは神様の言葉を聞いてシナイ山に上りました。シナイ山で4040夜神様と話をします。シナイ山で神はモーセに十戒の板を与えます。やがてシナイ山を降りて行きます。聖書は「モーセは山から下ったとき、自分の顔が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がモーセを見ると、なんと彼の顔の肌は光を放っていた。」(出エ34章)とあります。神様と話をし、神様と語る時に心も体も存在そのものが、輝きだす。神様の言葉を受けると霊が、心が喜びであふれる。人格が輝きだすのです。栄光の神、栄光の神の言葉が私たちを輝かせるのです。それが信仰生活です。神の顔を仰ぎ、神の言葉を受ける者とされましょう。