2021.10/3 『自然・戒め・清め』

自然・戒め・清め

詩編19115

Story1:大空は御手の業の実感

 「大空は神の栄光を示す」とあります。私は鹿児島の田舎の小さな漁港で高校生まで過ごしました。ですから海の見える景色は大好きです。鎌倉・江の島・湘南海岸にも大好きです。何か広々とした青空・海・空を・大島が見えると故郷を思い出しますし、心が和む思いがします。海に輝く雲や波や空を見ますと神様の素晴らしさを思います。神様は様々な色を使って絵を描く美しい画家、芸術家だと思います。

ローゼンに買い物に行きましても、キャベツやセロリの緑、ミカンのオレンジの黄色、トマトやイチゴの赤、紫キャベツの紫、ピーマンの緑、魚のアジのブルーなど神様の色の感覚は素晴らしいと思います。神様に囲まれています。

Story:神の栄光を示す被造物

「天は神の栄光を物語り、大空は御手のわざを示す。・・・・その響きは全地に、その言葉は地の果てに向かう」(詩編19編2~5)の「栄光」は「重要、大切」という意味があります。創造物は「神が大切にして創造した」ということです。夏川りみさんの息子さんが誕生日に「お母さん僕を生んでくれて有難う」と言ってくれたそうです。りみさんは本当に感動したそうです。子どもが生んでくれ、創造してくれたことを感謝してくれれば、本当に嬉しいでしょう。私たちも創造され、生まれたことに感謝したいと思います。

Story:戒めは神の愛

「主の律法・主の定め・主の命令・主の戒めは完全で・魂を生き返らせ・無知な人に知恵を与え・目に光を与える」(89節)とあります。神様の教え、聖書の教えは本当に有難いものです。

クリスチャンになって良かったことは、早天祈祷会を知ったことです。朝六時から牧師先生と一緒に祈り、パンと牛乳等を飲んで学校に行きました。子供用の四角木製のテーブル、子供用の低いベンチに座って23人の方と祈りました。朝毎に魂が新鮮に生き返る経験をしました。朝一番に神様から励まされ、愛されて、こんな自分でも愛されて生きること出来ることは本当に感謝なことでした。この早天祈祷会で私は虚無的で自己否定に襲われがちな自分が愛されている喜びに生きる体験をし続けて来ました。神様の教えは私を生かしました。神様は目に光を与え、輝かせてくれます。人生の根本的な生き方には4つあると言われます。

I’m not OK, You’re not OKです。自分もだめで、あなたもだめという考え方です。否定です。ニヒリズムの視点です。自閉的で虚無的。人生を不毛なものだと考えます。

I’mOK,You’re not OKです。自分は良いけれど、あなたは善くないという視点です。上から目線です。人なんて当てにならずどうでもいい。排他的で攻撃的、被害妄想的。他者をコントロールしようとする。

I’m not OK, You’re OKです。自分はダメで、あなたは良いです。すねた視点になります。自信がなく、受け身で不安。相手の言うことに従い、ストレスがたまる。あんたが良ければそれで良いんでしょみたいな生き方です。

I’m OK, You’re OKです。自分も肯定し、相手も肯定することです。神様の根源的な創造の感謝です。どんなに自分と相手が罪人であっても許されている存在であることを喜びます。相手に不快感を抱くことなく、ありのままの自分を表現できる。

対話する時や人と接する時は必ず相互に肯定されている喜びを感じるように対話することが大切です。神の言葉聖書は私たちに優しく語りかけます。「主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光をあたえる」(九節)とあります。目は心の窓と言いますが、心に喜びがあれば目は輝きます。「主の言葉は多くの純金に勝って望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」とあります。蜂蜜はパンに付ける、ホットケーキに付けると美味しいです。神様の言葉は蜂蜜のように喜びを与えてくれます。

Story4:清めを受ける

 最後の部分1215節を見てみましょう。まず12節では「それらのことを熟慮する」という言葉があります。清められることを熟慮する。信仰を熟慮する。よく考えて慌てたり、急いだりせず丁寧に思い返し、判断することを祈っています。

さらに1315節では願いが書かれています。第一に4つの罪が書かれています。13節の「知らずに犯した罪」同じ13節「隠された罪」、14節「驕り」14節に「重い背きの罪」です。わたしたちは知らずに犯す罪があります。無自覚の罪です。指摘されてもそんなつもりはなかったというかも知れない罪です。「隠された罪」もあります。人には知られないように上手く隠している罪です。これも神を裏切るものでしょう。「驕り」の罪もあります。これも自分を偉く見せようとする、負けず嫌いで勝ちたい思いに駆られてしまう罪です。そして「重い背きの罪」です。これは意識的・反抗的な罪です。これらから清められるように、清めて下さいと祈っています。そして15節では「口の言葉」と「心の思い」が御旨にかうように、神の御前に置かれるようにと祈っています。自分の罪を深く見つめ、自分の心を注ぎだし、心を神の前に開け広げている姿が描かれています。詩編は自分の罪のありかを探る力強さを持っています。また自分の心を誤魔化さずに分析する謙虚さに溢れています。そして罪を罪として認め、弱さを神の前で整えて行く、謙遜さがあります。自分と神とが出会った自分が罪人である自覚を持つ、力強さがあるのではないでしょうか。

 今日は主の晩餐式を行います。キリストの十字架を体感します。キリストは私たちの罪を贖うために、わたしたちの罪を負いました。それは冤罪事件に犯人になったのです。そして死刑にされたのです。真犯人は私です。キリストは身代わりとなって、わたしの故に死刑になったのです。わたしの隠された罪、わたしの傲慢、わたしの驕りはキリストが「冤罪の犯人」のような形で負ったのです。