2021.9/26『真の神殿の幻』

真の神殿の幻

2021年エゼキエル43;1~12

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Story1:神殿の美しさ

 皆さんはパリのノートルダム大聖堂をご存じでしょう。中世の大聖堂は全部東向きに建てられています。ノートルダム寺院もそうです。朝の光を取り入れるためでした。光を使って神様の栄光や天国の輝きを建築の中に取り入れました。   

皆さんはどんな会堂で礼拝したいと思いますか?私は幾つもの礼拝堂を見てきました。中国、フィリピン、香港、南ア、シンガポール、タイバンコク、アメリカの南部の教会、ワシントンDCにある超教派のワシントンカテドラル、ギンターパークバプテスト教会、ボン・エアバプテスト教会、アメリカの幾つものプレスビテリアン教会、レイクウッドメイナーの小教会堂、ユニオン神学大学の礼拝堂、また日光にある大谷石の聖公会の教会等、数え上げればきりがきがありません。

会堂は神のホーリネス、神のアガペ、神の臨在、神の栄光、神の霊を示す場所であり、会堂内の設備も、行為も行動も、言葉も、着る物も、「礼拝の所作」交わす挨拶や言葉も神様の聖、栄光、臨在、愛を現すものでありたいと思います。会堂は聖なる神の臨在の場所です。

神殿について、40章から48章という膨大な章を使って説明しています。40章~43章では神殿のサイズの実に細かな報告。44章ではそこで働く祭司の務めの細かい所作や聖具、45章では神殿聖域の重要性、45章後半では祭儀の規定や祭具の大切さ。47章神殿を流れる命の水(会堂は命の水が流れる聖なる場所)。47章後半では神殿を取り蒔く12部族、48章の最後の言葉は「主がそこにおられる」という言葉で結ばれています。神殿が大胆に、詳細に描かれます。

Story2:神殿とはどんな場所か

 エゼキエル書は神殿とはどんな場所かを聖書は示します。26節を読んでみましょう。

神の栄光が満ちあふれる場所

「イスラエルの神の栄光が東から到来します。(2節)大地は主の栄光で輝いています。(2節)エゼキエルはひれ伏します。(3節)主の栄光は東に向いている門から神殿の中に入っていきます。(4節)、主の栄光は神殿を満たします。(5節)」

 イマジネーションを膨らましてみましょう。輝く主の栄光が神殿の中に進み入ります。神殿は輝きます。何という素晴らしい光景でしょうか。エゼキエルは膝を屈め、頭を低くしひれ伏します。会堂は神の光りにひれ伏す場所です。ノートルダム大聖堂のバラ窓は東向きにあり、そこから輝かしい美しい光が射しこみます。そこには神の栄光が輝き、主の栄光が臨在する。会堂は主の臨在が満ちあふれ、主の栄光が満ちあふれる、神の栄光にわたしたちがひれ伏す場所です。「神の栄光よ、会堂に来たり給え」と言う祈りの中で礼拝は行われ、主の栄光と出会う場所です。

  神の王座が据えられる場所

主の声は語ります。7節。「ここはわたしの王座のある場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしはここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む」(7節)「足の裏を置く」とはしっかりと神が立たれる,しっかりとそこに神が臨在するという意味です。幕屋や神殿の中で神の臨在に触れるのです。神の足台それが会堂なのです。礼拝堂は神の王座、神ご自身が臨在する坐です。礼拝堂は神が住まわれる御座です。わたしたちは神聖な神の座に近づき礼拝するのです。

  聖なる場所

  さらに次のように語ります。「二度とイスラエル家は民も王たちも、淫行によってわが聖なる名を汚すことはない。」(7節)神と言う名は「聖なる名」です。聖はヘブル語で「カドーシュ」で完全に隔絶している清さ、人が達するこの出来ない隔絶した聖を言います。神の持つ聖なる正確に人は修行すれば達することが出来ると言うものではないのです。「壁一つの隔たりとなった」(8節)があるのです。神が住む場は「聖所」、神の性格は「神聖」、聖所で使う道具は「聖具」、神殿にある色々な部屋は「神聖な部屋」と呼ばれました。神への捧げものは「神聖な捧げもの」と呼ばれました。パウロはキリスト者を「聖徒たち」と呼んでいます。

  汚れを退ける場所

  8節をみますと「彼らは忌まわしいものを造って、わが聖なる名を汚したので、わたしは怒りをもって彼らを滅ぼした」とあり、「わたしのもとから、淫行の王たちの死体を遠ざけよ」と聖なる神は語ります。聖なる神は汚れたものを退け、神の聖なる名を汚すことがないようにします。イスラエルの王たちは周囲の国々のようになりたいと、国を富ませることに執着しました。周囲の国を富ませるためにエジプトやシリアと交流し木材や食料などを輸入しました。その結果多くの神々も入って来ることとなりました。そしてヤッハウェの神を忘れ、戦争となり、敗北し、バビロン捕囚となりました。

しかしこのような王たちを神を退けるのです。死体を運び出せと迫るのです。「そうすればわたしは彼らの中に住む」(9節)と主は語るのです。

 

Story:神殿を示せ

 10節を読みましょう。「人の子よ、あなたはイスラエルの家にこの神殿を示しなさい。それは彼らが自分の罪を恥じ、神殿のあるべき姿を測るためである。」と言われています。

 神殿すなわち「主の臨在の場所」「王座のあるべき場所」「わたしの足の裏を置くべき場所」である神殿をみんなに示しなさい。そうすれば自分の罪を恥じると言います。神殿は人の罪を見せる。神殿は人に罪を示して懺悔の思いを与えるのです。

  ここから現代の会堂の意味を学ぶことが出来ます。会堂はあれば良いというものではありません。そこで神の臨在を感じ、罪を示され、神の聖なる人格を体験する場所なのです。気楽に来れるとか、便利であるとか、誰でもこれるとかそういうことも大変大事です。

しかし会堂は神の臨在を体験する至聖所であるべきことが最も大切な点なのです。教会はある意味本質的に敷居が高くなければ、その聖(ホーリネス)に与かることが出来ません。わたしたちは神の神殿の中で共に豊かに生きることができるのです。教会は永遠に神の栄光を現す場です。礼拝堂は神に永遠の栄光を捧げる神の国の栄光の場所です。共に永遠の命の場所である教会に共に住みたいと願います。