9/5『主こそ真の牧者 2021年9月5日エゼキエル34:1―16』

主こそ真の牧者

202195日エゼキエル341―16

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Story 1:政府が市民を見捨てる時

先々週はアフガニスタンからアメリカ軍が撤退しました。カブールの空港に何千人もの人々が脱出を求めて集って来ました。タリバン政権ができると、米軍に協力した人々は殺されるという恐怖におびえて脱出しようとしたのです。米軍機に乗り込もうとして人々が殺到しました。タラップに人々が押し寄せて、ぶら下がっていました。子どもだけ米兵にあずける人もいました。米軍機が動き出しても車輪に人々はしがみついたりしていました。米軍機の飛行機の車輪の格納部分に入り込んで、命を落とした人もいました。警備兵に殺された人もいました。政府が崩壊し、大統領は国外に脱出し、国は無くなり、「飼う者のいなくなった市民」は大混乱になっていました。バビロン捕囚でユダヤとイスラエルが滅んだ状態はあのような状況だったのではないかと想像しました。国の崩壊、国に見捨てれること、都カブールの崩壊、都エルサレムの崩壊は深い悲劇だと思いました。

Story2:牧者(リーダー)たちの状態

 まず、今日の個所を読んでみましょう。110節には「牧者」という言葉が10回も出てきます。4節に「お前たちは弱い者を強めず、病める者を癒さず、傷ついた者を包んでやらなかった。」と言われています。「他の人の成長に心を配ることが出来なかったのです。さらに56節には、「彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりじりになった。・・わたしの群れは地の前面に散らされ、誰一人探す者もなく、尋ね求める者もない。」とあります。10節には「牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。」と書かれています。

 バビロンに捕囚となり、国は破壊され、神殿は壊され、そして嘆き、悲しむイスラエルの民を世話する者たち(牧者:王や祭司や指導者たち)はいなくなっていました。あたかもアフガニスタン政府の崩壊のようです。

イスラエルの民は飼う者のない羊のように孤独にさまよう人々になっていました。牧者たちすなわち王も、祭司も、親たちも世話をできませんでした。あの崩壊したアフガニスタンの政府のように、牧者(リーダー)たちはもはやイスラエルの民を養うことは出来なくなっていたのです。

Story3:主自らが牧者となる

  このような状況をご覧になった神はどのような態度を取られたのでしょうか。その思いと行動が1113節に書かれています。11節には「見よ、わたしは自分の群れを探し出す。」とあります。主ご自身が牧者に代わって養う者と成ると宣言します。人に代わって主ご自身が飼い主になるのです。

それでは一体どんな養いをするのでしょうか。それを見てみましょう。

 11節「自分の群れを探し出す。(ダーラシュ:熱心に探す)・・・彼らの世話をする。(バーカッシュ:気をつけて調べる)12節「わたしは自分の羊を探す。(ダーラシュ:熱心に探す)・・・すべての場所から救い出す。(ナーツアル:取り戻す)」13節「諸国の民の中から連れ出す。(ボー:連れて運び出す)・・・諸国から集めて彼らの土地に導く。(ボーシュ:羊を導く)・・・彼らを養う。(ラーアー:羊が草をはむ)」15節「わたしの群れを養い、憩わせる。(ラーバツ:安心して休ませ、伏させる)16節「傷ついた者を包む(ハーバッシュ:包帯をする)、弱ったものを強くする(ハーザク:堅固にする、勇気づける)と語ります。

痛みが無いことは本当に幸せなことです。今回心臓の病気で入院してそう思いました。大きな手術でしたが、痛みを全く感じない入院生活でした。モルヒネなどの痛み止めを使っていたと思いますが、傷口が痛むことも手術中に痛むこともありません。点滴を毎日打ちましたが、痛みはありませんでした。ベッドに寝ながら、人間関係や心の痛みも上手に痛まないようにする関係を作りたいなあと思いました。チクチクする心の痛みは苦痛です。それらの痛みをも主は癒して下さると思いました。

神様が色々とお世話して下さる性格、情熱や優しさが記されています。あなたかもお医者さんのようです。主は実に優しく私たちに接して下さいます。ここには真の牧者にご自身がなることを語っています。神は私たちを探し出し、世話し、救い出し、連れ出し、導き、養う方なのです。

Story:主は肥沃な牧草地で

 今日の最後にわたしは神様の牧場で養われる(ラーアー:羊が草を食べる)ことを語りたいと思います。聖書は14節「わたしは良い牧草地で彼らを養う。」14節「高い山々は彼らの牧場となる。」14節「山々で憩い、良き牧場と肥沃な牧草地で養われる。」16節「わたしは公平をもって彼らを養わせる。」と語っています。

 主が養ってくださる牧場は「良き牧草地」「肥沃な牧草地」「公平に満ちた牧草地」であると語っています。神様と共に生きる牧場は真に豊かな場所です。

最近ある神学部の先生が「コロナ禍と教会」について書かれた記事を読みました。それはアイザック・ニュートンの話です。アイザック・ニュートンはイギリスでコレラが大流行した時に大学で物理を教えていました。しかしコレラの大流行で授業も大学も休みなりました。それで彼は故郷に帰って休むことにしました。ニュートンは半分気落ちしていました。

授業もないので森や山に行って気楽に過ごして、ボーと数日を過ごしました。その何も仕事ができなくなって、近くの森に出かけた時、リンゴが落ちるのを見て、万有引力のアイデアを思い付いたのです。ユックリしている時間にひらめいたそうです。

 牧場とは神と共に安住できる信仰の牧場です。そこではゆっくり、み言葉が心に滲みわたり、神から愛されている実感が豊かに心に湧き上がり、隣人とも家族とも平和の豊かさに溢れる関係を築くのです。威張ることも、力むことも、ねたむことも、競争することも、争うこともない、平和な祈りの世界です。神様の臨在に触れる時間です。わたしたちは「広く、肥沃な牧場」での養いを必要としているのではないでしょうか。

わたしたちも忙しい生活を離れて神様のことをゆっくり考える、広い広場に招かれて、霊操の時を持つなら、もっと深い信仰へと導かれる体験をしましょう。共に主は「肥沃な牧場」へわたしたちを招いておられます。共に主の「肥沃な牧場」で過ごしましょう。