立ち帰れ、立ち帰れ
2021年8月29日エゼキエル書33章10~20節
Story 1:「飲水思源」
暑い夏の日々が続いています。水の補給は夏には欠かせません。冷たい水は心も体もリフレッシュさせてくれます。最近は「南アルプス天然水」等と言って水源地などを示すようになりました。
中国の言葉に「飲水思源」と言う言葉があります。「水を飲みて、その源を思う」と読みます。「水を飲むときに、その水源に思いを致す」という意味です。そこから「物事の基本を忘れない」、「他人から受けた恩を忘れない」「自分が幸せであると感じる時に、多くの人々の助けや支えがあることを忘れない。」という意味などにも使われます。素晴らしい言葉ですね。
聖書的に言えば、人間の水源である神様の愛を忘れない。「湧き上がる水源・イエス様」に思いをいたすようにという意味で読むこともできます。絶えず主の御心に立ち帰って、水源である主の言葉に生き続けることはわたしたちの人生を豊かにしてくれるものです。
イスラエルの人びとは戦乱やバビロン捕囚という故国喪失という大きな経験をしました。そして神はもう私たちを見捨てたと思いました。「水源」を忘れたのです。しかし神は預言者を与えて下さいました。命の水源を思い起させる働きをしました。
Story2:彼らに言いなさい。
聖書を見ていきましょう。10節「お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることが出来ようか。』」
イスラエルの民はバビロン捕囚となり意気消沈、絶望の民でした。わたしたちが良く希望を失うようにもうだめだ、もう疲れた、やっても信じても意味がない、無駄だと思っていたのです。みなさんは教会について世の中について、職場について希望を失っていないでしょうか。彼は神の水源を忘れて自暴自棄になっていたのです。
しかし神はこう語ります。11節です。「わたしは生きていると主は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(11節)
神は生きています。生きて働きます。悪人が死ぬのを喜びません。神に立ち帰って、生きることを求めています。死んではならないのだと語ります。これが神のヘッセド・愛です。
「飲水思源」です。生きている時に常に神の言葉を思い越し、神の元へ立ち帰りましょう。
Story3:善人も悪人も
12~14節は複雑な文章になっています。まとめて言えばこうです。第一に、善人について語っています。善人であっても自分の正しさに頼って不正を行うことがある。善人でもその判断を誤る。その時は自分を自分で救うことは出来ない。善人であっても主の道に従う必要があり、悔い改めが必要である。
第二に、悪人について語ります。悪人であってもその過ちから立ち帰って正義と恵の業を行うなら彼は生きる。死ぬことはないと語ります。悪人であっても主の道を認める必要がある。悪人もまた悔い改めて主の言葉に立ち帰る必要がある。
どちらにしても、人間は絶対的ではあり得ません。神の言葉には応答すべきことが語られています。神の言葉への応答こそが命を得る道であることが示されています。
聖書は人間を善人、悪人に単に分けていません。聖書によれば「人は人であり、神に立ち帰って生きることが本源である」と言っているのです。
わたしたち人間は善人であっても、悪人であっても同じ罪人であり、神のエデンの園から追放された者です。わたしたちはわたしたちの水源に連れ戻す神に頼ることが信仰なのです。
Story4:主の言葉を語る使命
最後に預言者の使命を語りたいと思います。神はエゼキエルに次のように語りかけます。7節「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたがわたしの口の言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。」10節「人の子よ。イスラエルの家に言いなさい。」12節「人の子よ。あなたの同胞に言いなさい。」33:1「人の子よ。あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。」とあります。
預言者エゼキエルに神は「主が語る言葉を語るように。」と示しています。わたしたちは賛美する、神の愛を受ける、神の恵みを数えるだけではなく、神の語りかけを「神はこう言われる」と自ら語るように召されているのです。
これを聞くと自分のような者は神の言葉など語ることは出来ないと思うでしょう。しかしある牧師がこんな話をしたことがあります。「ある酔っ払いがフラフラしながら道路の真ん中を歩いていました。すると真向いから自転車がやってきました。酔っ払いは言いました。人は右、車は左だ。自転車は左を走れ!と怒鳴りました
酔っ払いが言っても、車は左、人は右は正しいのです。善人でも悪人でも人間はしょせん罪人です。罪人が語っても善人が語っても、「神の言葉は神の言葉として正しい」のです。人の善悪によって神の子言葉は変更されることはありません。神の言葉として正しいのです。
詩篇42編1節に「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。」と言う言葉があります。
「谷川の水を慕う鹿のように、
主よ、わが魂、あなたをしたう。あなたこそわが盾、あなたこそ我が力、あなたこそわがのぞみ、われは主を仰ぐ。」
魂の水源である主を、今週もしたい求めて歩いて参りましょう。