8/22 『立ち返って生きよ!』

立ち返って生きよ!

2021822日エゼキエル書182132

 

Story 1:映画「悪人」

 皆さんは悪人という映画をご覧になったことがあるでしょうか。深津絵里と妻尾木俊夫の主演で日本アカデミー賞を取りました。

 金持ちの娘・加乃は元カレ罵詈雑言を浴びて心に深い傷を持ちます。加乃は元カレに車から投げ出されて、ケガをします。その時偶然、祐一に助けられます。しかし加乃は勘違いして祐一に罵詈雑言を浴びせます。それは加乃が受けた罵詈雑言の経験の仕返しでした。その言葉に祐一は心をコントロースできずに加乃を殺害し峠の谷底に捨てます。祐一は小さい頃に母に捨てられ、祖母の元で育てられ、愛情の表現方法が出来ない青年でした。母は祐一にも祖母にも全く愛情などない人でした。自分の娘加乃を殺された加乃の両親は普段から夫婦仲が悪く、夫は暴力を振るいます。祐一は加乃を殺害して後、元カノの光代に会います。元カノは祐一に警察が祐一を探していることを知らせます。二人は逃亡生活を送ります。やがて灯台に立てこもりますが、追い詰められた祐一は元カノの光代を殺害してしまいます。描かれる人々が全員不幸な生い立ちで愛情を求めつつ、得られないジレンマと憎悪の中で生きている映画です。

Story:過ちを犯す人間

バビロン捕囚への警告は預言者によって幾度も警告されました。イスラエルの民は楽観的で捕囚など起こらないとタカをくくっていました。安楽な預言をする預言者が人気がありました。また厳しい預言をする預言者相手にされませんでした。イスラエルの民は罪に無自覚でした。無自覚ほど恐ろしいことはありません。無自覚は信仰を誤魔化します。

今日の個所には、「過ちを犯す」「罪を犯す」「背く」「隣人の妻を犯す」「貧しい者、乏しい者を力で奪う」「高利を取る」「偶像を礼拝して忌まわしいことを行う」「主の道は正しくないと言う」「罪によってつまずく」など多くの罪の姿が描かれます。

彼らは小難しく罪を問う神など必要ないと思いました。自分の責任を神に押し付けたのです。神など関係ない。悔い改めなど必要ない。そんなに罪を指摘するならもう神など必要ない。神と人との関係が切れ、自由に生きることが出来ることは楽で楽しい。そしてこの自由がさらに「罪を生む結果」にもなりました。「悪人」の映画のように人は絶望と罪を持つ者です。映画の祐一も、加乃も、祐一の両親も、おばあちゃんも見捨てられた思いや裏切られた思いの苦しみの中で生きていたのです。この感覚を五木寛之は「デラシネ(うきくさ)の思想」と呼んでいます。イスラエルの民はデラシネの姿でした。神様から切り離されて、民は罪を犯すことすら恐れなくなっていたのです。

Story2:悪人も生きる

 しかし聖書は神との関係を描き続けます。今日の個所では次のように神は語ります。

「悪人であっても必ず生きる。死ぬことはない。」(21-22)、「行った正義のゆえに生きる。」(22、)、「悪人の死を喜ばない。」(23)、「正しい人でも正しさから離れて不正を行うと彼は生きることがデキようか。<否!できない。>」(24)。「悪から離れて正義と恵みの業を行うなら彼は自分の命を救う。・・・必ず生きる」(27)。「彼は悔い改めたのだから・・必ず生きる。」(28)と語ります。

  神は溢れる情熱をもってイスラエルの民に迫るのです。神の溢れるヘッセド(アガペ・憐れみ・愛)です。悪人であっても生きる。それは神と人との根源的な関係への回復を求める神の情熱的な招きです。神は悪人の死を喜ばない。神ご自身が、正義と恵の業を行うなら、悪人は生きうる。と語ります。また「犯した過ちから離れる」「悪人がその道から立ち帰るなら生きる」「悔い改めて自分の行った背きから離れたのだから必ず生きる」と語ります。

  神は罪の中にいる人を憐れまれます。神は愛をもって創造した人間の堕罪を回復するのです。神様は人が去っていくのを悲しく思われるのです。神との関係を再び結ぶときに初めて人は生きた者となるのです。神は人と共に生きることを望んでおられるのです。

Story4:立ち帰って生きよ

 さらに神の御心を読んでいきましょう。神は言われます。

「わたしの掟を守り行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。」(21)、「(悪人がその道から離れて)生きることを喜ぶ」(23)、「(背きから離れたのだから)必ず生きる」(28)、「(背きから)立ち帰れ」(30)、「(背きを)投げ捨てて、新しい心と新しい霊を作り出せ。」(31)、「お前たちは帰って、生きよ。」(32)。

 「生きよ(ヴィフーユー)」、「悔い改めよ(ヴェハーシーヴー)」、「立ち帰れ(ヴェハーシーヴー)」、「生きよ(シューヴー)」と神は何度も繰り返し、情熱を持って、熱い心で、本当にそうして欲しいのだと懇願し、祈り、熱意をもって進めるのです。

バビロン捕囚は神が見捨てたことを意味しません。それは悔い改めて神に立ち帰ることを意味する経験だったのです。試練とは神の御心に立ち帰る機会なのです。それによって一層深い信仰の世界に導かれていくのです。

イエス様が「悔い改めよ。神の国は近づいた」と言われた言葉を思い起します。

 さらに今日の主題「新しい心、新しい霊を造り出せ」(31)について述べたいと思います。

「新しい歌(シールハダーシュ)」(詩編33)、「新しい契約(ベリートハダーシャー)」(エレミヤ31:31)、「新しい心(ベールハダーシュ)」(エゼキエル18:30)、「新しい霊(ルーアッハハダーシャー」(エゼキエル18:30)など聖書には「新しい(ハダーシャー)」という言葉が多く出てきます。神様から与えられる新しさを神は与えます。単に讃美歌を歌ってスッキリしたという新しさではありません。古いものとは常に人間の信仰です。人間の信仰はいつでも化石のように固まってしまいます。あたかも教会や教義について全部知っているかのように思います。

 

しかし常に、神の霊は古くなって固くなった信仰や心を新しい者、新鮮なものに変えるのです。化石のように凝り固まった信仰を新しくするのは聖霊です。「日々御言葉は我に新たなり」という言葉があります。日々新鮮な御言葉の体験をすることが出来るのです。