8/15 『空しい幻を見る』

空しい幻を見る

 20218月8日エゼキエル書13:8-16

 Story 1:王道楽土

今日は815日を迎えています。敗戦記念日です。日本政府は1932年満州国を建設します。その際のスローガンは五族協和(民族協和)」「王道楽土」です。「五族協和」とは、「五族」とは、満州人、日本人、蒙古人、漢人、朝鮮人を言います。これらの人々と「協和」・平和に暮らす国を作ると夢を見ました。しかし差別や国家神道の強制などが実際でした。

また「王道楽土」とは極楽のような場所という意味です。満蒙開拓団の人々がこの地に入りました。内地日本で困窮している人々が多くこの地に入植しました。人々は満州に雄飛し、名を上げることを目指しました。

しかし実際の生活は大変なもので、土地や家や仕事自体も「楽土」とは程遠いものでした。国策で作られた「夢やビジョン」は現実とはかけ離れたものだったのです。ソ連の参戦により、シベリヤに捕囚となった人々も多くいます。満州から逃れる人々は壮絶な苦労をしなければなりませんでした。満州国は「幻想」に終わりました。

 Story2:むなしい幻

 今日の個所でまず「愚かな預言者」について語られます。彼らは「何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者」(3)であり、「むなしい幻(7)「欺きの占い(9)」を語る者です。また「平和がないのに平和の幻を見る者」(13:791023)、「漆喰を上塗りする者」(11)と言われています。

現代言えば、祈りの生活を忘れ、自分の霊の赴くままに語り、好きなように聖書を理解し、自分の好みに合わせて神の言葉だと思い込んで語っている状態です。彼らは自分の聞きたい言葉だけを聞き、聞きたくない厳しい言葉は聞かない。いい気分にさせてくれる心地よい言葉は聞きたい、厳しい言葉は避けて受け入れないのです。子どもは好きなものだけ食べたがります。ピーマン嫌い、ニンジン嫌いと。偏食です。お父さんやお母さんはバランスよい食事をしなさいと教えます。食べたくないものも食べる練習をすることが信仰生活です。苦い言葉も食べる練習が必要です。聖書を全体的に学ぶ、バランス良く学んでいくことが大事です。好きなところだけ食べていたら偏った信仰になります。

イエス様は律法学者やファリサイ人に「あなたがたは白く塗りたる墓だ」と言われたことを思い起します。「幻を語る」時に私たちはよほど注意が必要です。夢幻に終わらないようにしたいものです。 

Story3:神による破壊

このような虚しい幻を語る預言者、それに振り回されるイスラエルの民に対して、神はどのような言葉を語っているでしょうか。

主の言葉は語ります。「お前たちに立ち向かう」(8)、「イスラエルの土地に入ることもない。」(9)、「漆喰は剥がれ落ちる」(10)、「暴風を起こし、お前たちが漆喰を塗った壁をわたしは破壊し、地面に打ち付け、その基礎をむき出しにする。それが崩れ落ちるとき、お前たちはその中で滅びる。」(14)と語ります。

良く「メッキがはがれる」と言います。「うまべだけのごまかし」がきかなくなって、しだいに本性が現れることです。隠されていた本性が見えて来て、馬脚が現れることです。一時的に人の気を引くような信仰、教会に人が集まっても、人気取りの伝道は、偽りの表面だけの信仰となり、必ず暴かれてしまうのではないでしょうか。

これらの審判は決して単に裁きではなく、「神がイスラエルの民を苦しめようとしているのではない。」(22)と主は語っています。神の厳しい裁きは神の厳しいアドバイス、忠告なのです。

 

Story 4:我が民を救う

 バビロン捕囚と言う苦しみは、神の厳しい裁きと考えられました。しかし裁きで、終わることはありません。13章の最後は神の救いの言葉で終わります。「それゆえ、もはやお前たちが空しい幻を見ることも占いをすることもなくなる。わたしは、お前たちの手から我が民を救い出す。その時お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。」(1323と裁きの神は語ります。

甘言を弄する預言者、占いに走るイスラエルの民、平和でないのに平和と語る預言者、うわべだけ美しい信仰であるが故に、神は自らの権威を掛けて、「神ご自身が救い出す」のです。

「わたしが主であることを知るようになる。」という約束の言葉で終わります。この言葉はエゼキエル書で繰り返し語られるキーワードです。(5:136:77:4、9,12:1513:9,2114:811:101220:38

 神の裁き、神の怒り、神の憤り、神の審判は、神の愛に反しているように見えます。わたしたちはそのような審判はないのが神だと思いがちです。しかし否定的な意味にのみ理解されてはなりません。神の裁きは神が主であることを知るという恵みの喜びの体験として書かれています。神の怒りさえもそれはただ恐怖することではないのです。神の裁きは、怒られるので避けるべきものではありません。神の審判は神が神であることを認め、怒りの中にも深い愛情があることを知る体験なのです。ヤーウェは厳しい審判を通して神の愛を知らしめるのです。裁きを恐れてはならいのです。むしろ神の正しい聖なる裁きを受け、正していただくのです。神の裁きを恐れて逃げ回る信仰は決して深い信仰に達することはありません。

 神の厳正な裁きは、新約聖書において「神の独り子イエス・キリストの上に下りました。」これは神ご自身がなさった神ご自身による贖罪の愛です。この神裁きである十字架の愛のもとで許されているのです。神は神の側からの赦しの贖罪によって愛をわたしたちに示しました。この愛に生かされるのが、信仰生活です。この愛に共に生きて参りましょう。